月のないそら。



月のない夜だった。


新月の空は深く暗く、ばらまいたような星だけが、いつにも増して冴え冴えと白く。
これは夢なのだと信じたい自分を、その色だけが裏切った。
開けたままのカーテンの向こう、四角い窓硝子越しのその空をだけを、ただ見つめていた。


第一章



「宇都宮?」
声を掛けられ、はっと顔を上げる。
振り向くと、険しい顔の東海道本線が立っていた。
「……やあ、東海道。どうしたの?」
やんわりと笑んだ宇都宮に、東海道が眉を寄せる。
「どうしたのじゃねぇよ、何度呼んだと思ってる」
「ああ、ごめん。考え事してた」
東海道の詰問にも、宇都宮の笑みは崩れない。その様にむしろ違和感を覚えて、東海道の眉間の皺が深くなった。
それを見て取り、宇都宮はすいと眼を逸らした。手元で繰っていた書類に眼を落としたまま、静かな声だけを向ける。
「何の用?忙しいんだけど」
「呼ばれても気付かないほど惚けてて、忙しいもないだろ。具合でも悪いのか?」
「余計なお世話だよ。君には関係ない」
返される答えは取り付く島もない。
一向にこちらを見ないその態度に苛立って、東海道の声が尖った。
「関係なくはないだろ?お前が止まれば、全線に影響が出るんだぞ」
「そう簡単に止まるつもりはないよ。見くびらないで欲しいね」
即座に返る声は、変わらず淡々と凪いでいる。
冷めた横顔は突き放すように冷たく、それが妙に癪に障って、東海道は声を荒げた。
「……っ、いい加減にしろ!」
衝動に任せて、制服に包まれた肩を強く引く。
その瞬間、宇都宮の体がびくりと跳ねた。
唐突な反応は激しく、椅子ががたりと音を立てる。
二人だけの部屋にその音は奇妙なほど大きく響いて、思わず引いた手を宙に浮かせたまま、東海道は呆然と同僚を見つめた。
弾かれたように東海道を見上げた宇都宮の顔は、何処か青褪めていた。制服の下で、肩が小刻みに震えているのが判る。
それを押さえこむようにぎゅっと自分の腕を掴んで、宇都宮が眼を逸らす。
「……君がそんなに世話焼きだったとは、知らなかったよ」
平坦な声は、いつもの彼の声音だ。
それなのに、目の前にいる人物が自分のまるで知らない誰かのようで、東海道は息を呑む。
上げたまま下ろせない手、その指先に、さっき触れた一瞬の感触が残っていた。
それが、東海道を戸惑わせる。
(あんなに細かったか?)
詰襟の下の感触。骨に触れたような、ひどく頼りない硬さを思い出す。
宇都宮はけして華奢な方ではない。むしろ高い身長に相応の体格をしていたはずだ。
けれど指先の記憶が、認識を裏切って。
「……お前」
何を問うていいのかさえ判らないまま、当てのない言葉だけが零れる。
俯いた宇都宮の表情は見えなかった。それだけのことに、何故か不安を感じた。
何か言わなければ。思うほどに、言葉は出口を見失う。
「東海道?」
どれ程そうしていたのか、凍ったような空間に、不意に声が割り込んだ。
振り返った視界に映る空の色に、東海道が詰めていた息をゆっくりと吐く。
「……京浜、東北」
「どうしたの?何かあった?」
室内の微妙な空気を感じ取ったか、微かに眉を潜めて京浜東北が二人を見遣る。
口を開こうとして結局上手く言葉を見つけられず、東海道は小さく首を振った。
「いや、別に。何か用か?」
「ああ、うん……ちょっと相談したいことがあって」
一緒に来てくれる?と微笑む京浜東北に誘われるまま、東海道は部屋を出る。
ドアを閉める間際、振り向いた先の背中は、頑なに俯いたまま。
振り返らない背がまるで世界を拒んでいるようだとぼんやり思った。







ドアの向こうの足音が遠ざかって行く気配に、宇都宮は詰めていた息を吐き出す。
空調の効いた室内だというのに、背筋を冷たい汗が伝うのが判った。
まだ震える両腕をきつく掴み締めて、広げたままの書類に額を落とす。
吐き気がする。
(落ち着け)
東海道の手が触れたあの瞬間、考えるより先に体が反応した。
明確な拒絶反応。逃げ出しそうになる体を必死で押さえ付けたけれど、京浜東北が来るのがあと数瞬遅ければ、耐えられたか判らない。
きっと逃げ出していた。形振り構わず、怯える子供のように。
(情けないな……)
自嘲は生温い吐息となって落ちる。
きっと気付いた。東海道は、あれでいてひどく敏い。
誰かのために培われたその性質は嫌いでないけれど、こういうときは厄介だった。
もっと鈍ければいいのに。彼のように。
(馬鹿馬鹿し)
ふと浮かんだいつも不機嫌そうな顔に、くすりと乾いた笑いが零れる。
同時に蘇る、熱い手の感触。制服越しでも判る、高い体温と引き留める指の強さ。
雨に冷やされた空気の中で、それだけがリアルだった。
―――宇都宮。
ぎゅっと眉を寄せて、何か言いたげにこちらを見ていた。真っ直ぐな眼差しが、不安げに揺れていた。
それでも触れることを躊躇わない、傲慢で優しい指先。
あの時縋ってしまえれば、何かが変わっただろうか。
「……なんてね」
過った浅はかな思考を首を振って打ち消せば、制服の袖に隠れた手首がずくりと疼いて、吐き気が増した。
机に伏したまま、首だけを捻じ曲げて、腕を眼の高さに翳す。動きに袖が上がり、その下の肌が露になった。
いつも制服に隠されているせいか、何処か青白い右手首。そこにくっきりと残る、異様な痕ごと。
「……きもちわるい」
焦点の合わない瞳でぼんやりその色を眺め、宇都宮は薄く微笑む。
手首にぐるりと巻き付く蛇のような、赤黒い鬱血痕。左にも同じものがあることは知っていた。
擦れたのかところどころ瘡蓋になった傷は、もう塞がりかけている。深くはない。きっとそのうち、跡形もなく消えるのだろう。
けれどこれは、痕跡に過ぎない。本当の疵は、もっと深いところに刻まれている。最早痛みさえ感じないほどに、深く。
この痕は、ただそれを忘れさせないための楔だ。
「……はは」
また零れる笑いは、他人事のように遠く響く。
近くて、遠い。あの空に散らばっていた星のようだった。
あの夜のことは、辿ろうとすれば曖昧に霞む。
記憶の中の映像は夢よりも現実味がなく、けれど悪夢のようにこの身にまとわりついて離れない。
忘れたいのに。あれは夢だと思いたいのに。
この疵が、それを許さない。
晒した手首に額を押しつけ、硬く眼を閉じる。しばらく眠れていないせいで、目蓋を落とした途端、頭の奥がじんと痺れた。
滲む意識の向こうで、優しいのに冷たい、あの声が聞こえた気がした。







「気になる?」
突然の問いに、東海道は瞬いた。
前を行く京浜東北が、ちらりと振り返る。
「宇都宮のこと。珍しいね、君がひとのこと気にするなんて」
「……あいつと同じこと言ってんじゃねえよ」
苦々しく掃き捨てれば、立ち止まった京浜東北がちいさく笑う。
「ごめん。知ってるよ、君が実はすごく気を遣う性質だってことくらい」
「……うるさい」
別に、そんなんじゃねぇよ。
返した言葉はひどく子供染みて響き、案の定、京浜東北はくすくすと笑い声をたてた。
けれどその笑みはすぐに消え去り、視線が熱を失う。
「……でも、どうしようもないんだ」
何処か遠い声で、京浜東北は言った。
瞳の青に、諦めが映り込む。
「僕らには、どうしようもない。宇都宮が、そう決めたなら」
「……何の話だ?」
東海道が眉をひそめた。京浜東北の言葉は曖昧すぎて意味が取りづらく、その分不安が増す。
「お前……なんか知ってるのか?」
見つめた先の彼は、顔を上げない。長い髪に隠れようとするようなその態度に、無性に苛立った。
「何なんだよ一体!? 黙ってたって判んねぇだろが!放っとくつもりか!?」
思わず肩を掴み叩きつけた問いは、顔を上げた京浜東北の強い視線に弾かれる。
「放っとく気なんかないよ!でも仕方ないだろう!? 彼がそう望んでるんだ!!」
彼らしくない、烈しい口調。けれど見上げてくる瞳は傷ついたように歪んで、東海道は言葉を飲み込む。
一瞬泣き出しそうに揺れた京浜東北の傷む視線が、一瞬東海道の肩の向こうを見遣り、すぐ床に落とされる。
俯く項に掛かる淡い色の髪を、窓越しの光が滑った。
「……どうしようもないんだよ、東海道。手を出せば、余計に彼を傷つけるだけだ」
静かな声は、東海道にというよりはむしろ、自分に言い聞かせるように低く。
「京浜東北……」
肯定も否定も拒むその肩を、東海道はただ見下ろす。
彼の白い項を見つめながらぼんやりと、めんどくさいな、と思った。
面倒臭い。彼も、自分たちも。
救い難く、脆くて。
黙り込んだ二人の間に、陽射しだけが揺れる。床を滑る影を追って、京浜東北が顔を上げた。
その先に、唐突に鮮やかな色が映り込む。
「あれ、京浜東北……に、東海道?珍しいな」
角から現われた高崎が、見慣れない組み合わせに足を止めて瞬く。
「……高崎」
陽に照らされたオレンジの詰襟が眩しくて、眼を細める。
さっきも見たはずの、鮮やかな色彩。見慣れていなければ後姿では判別さえつかない、双子のような二人。
なのに何故、こんなにも印象が違うのだろう。
「何やってんだよ、こんなとこで。また人身か?」
「やめてよ、縁起でもない」
眉をしかめて駆け寄ってくる高崎に、京浜東北が苦笑を返す。
「なんでもないよ、ちょっと業務連絡。君こそどうしたのさ、この時間は上にいるはずだろ?」
「あー……こっちもちょっとな。ていうかお前ら、宇都宮見なかったか?」
どこか不機嫌そうにも見える表情で、高崎がその名を口にする。
間近の肩が一瞬強張ったのを、東海道は感じた。
(……京浜東北?)
それでも高崎に向ける表情は、穏やかなまま。その不自然さに、きっと高崎は気付かない。
「控室にいたよ。何、用事?」
窺うように首を傾げた京浜東北に、高崎がちらりと視線を後ろに流す。
「まあ、用っていうか……俺じゃないんだけどな」
「高崎。宇都宮、いた?」
言い淀んだ言葉に、涼やかな声が重なった。同時に、さっきの高崎よろしく角を曲がってくる革靴の音。
その意外さに、東海道は瞬く。
「上越、さん……?」
「ああ、ジュニア。久し振り」
漆黒の髪を揺らして、上越がにこりと微笑む。
高速鉄道だけに許された深緑の制服は、見慣れた廊下にひどく不釣り合いに映った。
「最近ご無沙汰じゃない。東海道が淋しがってたよ」
さらりと言われた言葉に、思わず眉が寄った。
「……まさか」
憮然と呟けば、上越はひどく楽しげに笑う。
「あれでいてブラコンなんだよ。構ってやらないと、拗ねちゃうよ?」
揶揄われているのがはっきりと判る口調に、眉間の皺はますます深まった。
兄のお陰で高速鉄道と関わることも多く、いい加減他の在来のように緊張することもないけれど。
それでもこの相手だけは、なんとなく苦手だ。細めた闇色の瞳に心の底まで見透かされているようで、どうしようもなく居心地が悪い。
「……雨が降ったら、行きます」
結局、返した言葉は我ながら子供染みたものとなり、上越をよりいっそう楽しませた。懲りないよね君も、労うように言われて、心底逃げ出したいと思う。
「上官。宇都宮、控室にいるみたいです」
少し緊張した面持ちで、高崎が割って入る。その言葉に、京浜東北が顔を上げた。
「もしかして、用って……上官が?」
意外さが声に滲んだ。確かに意外な組み合わせだ。
あからさまに不思議そうな眼を向けられ、けれど上越は、笑みを崩さずひょいと肩を竦める。
「ちょっと頼みごとをしてるんだよ。彼にしか頼めなくて」
世話掛けて悪いね。
細められた双眸が京浜東北の上を滑って、高崎に戻る。
「じゃ、行こうか高崎」
「あ、はい。―――じゃあな」
条件反射のようにぴしりと直立不動の姿勢を取った高崎が、控室に向かって歩き出す。心持ちぎこちない動きの彼のあとを、するりと猫のような歩調で上越がついていく。
午後の陽が満ちる南向きの廊下は明るく、やはりその深緑はこの空間に不似合いで、だんだん小さくなっていくその色を東海道はただ見つめていた。
そのまま、隣の京浜東北にふと問いかける。
「なあ。……高崎は、知ってるのか?」
目的語はなく、けれど京浜東北は訊き返すこともなく、小さく笑んだ。少し淋しげな笑みだった。
「……僕たちも、行こうか」
結局答えはないままに、空の色は歩き出す。彼らと逆の方向へ。
その背を追い、少し遅れて歩きながら、ああやっぱりめんどくさいな、と思った。
面倒臭い。彼も、自分たちも。
(もっと、つよくなれればいいのに)
ひとりで生きていけるくらいに、つよく。

それはきっと、叶わない望みだけれど。







ノックもなしにドアを開けたのは、気が急いていたからだ。
だから、視線の先でびくりと跳ねた肩を見た瞬間、少々気まずい気分になる。
「……なんだよ、居眠りでもしてたのか?」
後ろめたさのせいか、咄嗟に零れたのはそんな憎まれ口で、ああしまった、と内心溜め息をついた。
今日こそ、マトモに話そうと思っていたのに。
(失敗した……)
「生憎、それほど暇じゃないよ」
案の定、振り返る見慣れた面には、能面のような微笑みが張り付いている。
小憎たらしい笑顔はいつものこと。それでも本来なら滔々と続くはずの皮肉は一切なく、笑わない眼は、相変わらずこちらを見ない。
それが、何故か無性に悔しい。
「何か用かな、高崎」
けれど宇都宮は、こちらに反駁する隙を与えてくれない。さっさと本題に入れ、さもなくば出て行けという無言のオーラに、結局高崎は苦い息をひとつ吐いただけで従わざるを得なかった。
「……お前に、お客さん」
一歩部屋に入ることで道を空け、扉を押さえたままどうぞ、と声をかける。
革靴の踵を鳴らして部屋に入った上越が、珍しそうに部屋を見回した。
「へえ、これが在来の部屋か。結構いいね」
楽しげな声に、がたんと何かが倒れる音が重なった。見れば、座っていたはずの宇都宮が立ち上がり、呆然とこちらを見ている。
「宇都宮?」
足元に、椅子が転がっていた。さっきの音はこれらしい。
けれどそれを引き起こすこともせず、宇都宮はただ立ち尽くしている。
手が、縋るように机の縁を掴んでいた。
「宇都宮……っ」
瞬きもせず眼を瞠ったその顔がこころなしか青褪めて見えて、思わず駆け寄りそうになった足は、上越の手のひらに止められる。
その手一つで高崎をその場に留め、黒髪の上官はゆっくりと宇都宮に歩み寄った。
「ごめんね、宇都宮。驚かせたかな」
柔らかく笑った上越が滑らかな動作で屈み、椅子を起こす。
細い手が、するりと彼の肩に触れた。
「座ってていいよ。すぐに行くから」
「は……い」
労わるような言葉に答える声は、小さく掠れた。
さほど力を込めない手に操られるように座った宇都宮は何故か俯いたまま、膝の上に置いた両手を固く握る。指先は、微かに震えていた。
その様はひどく不自然で、その場に突っ立ったまま、高崎は眉を寄せる。
「宇都宮、お前おかしいぞ?具合でも……」
「疲れているだけだよね?」
問い掛けには、上越の声が返った。指先を宇都宮の肩に置いたまま、苦笑するように俯いた彼を見下ろす。
「最近ちょっと、個人的にお願い事をしてるんだ。そのせいで、ちょっと疲れさせちゃってるかも。ごめんね、宇都宮」
「いえ……大丈夫、です」
ふるりと宇都宮が首を振った。整えられた襟足から覗く項が、蛍光灯に照らされて白く映る。
「ちょっと……目眩がしただけです。寝不足で」
「そう?気をつけないと駄目だよ。僕らは体が資本なんだし」
「……はい、判ってます」
交わされる会話を、高崎はぼんやりと眺めていた。何故か、縛られたようにその場から動けない。
オレンジの制服の肩に置かれた手の白さが、やけに眼につく。
体の脇に下ろしたままの右手が、不意にじんと痺れた。すこし考えて、いつか宇都宮に払われた手だと思い出す。
この手を拒んだ、容赦のない強さ。そのあとの、一瞬の表情。
見たことのない、彼の弱さ。
(……なんだよ)
その手なら、いいのか。
ぼんやり浮かんだその言葉は、自分のものではないように曖昧で。
ただ、胸の奥の方が、ちり、と痛んだ。
「君がそう言うなら、大丈夫かな。実はね、渡すはずだった資料、部屋に置いてきちゃったんだ」
上越が、ひょいと肩を竦めた。似合わない、おどけたような仕草だ。
「でも僕これから出ちゃうし。戻るの夜になりそうだから、部屋まで取りに来てもらえるかな?」
穏やかな言葉に、宇都宮がばっと顔を上げた。見開かれた眼が、色を失っている。
初めて見るその表情に、かっと頭が熱くなった。考えるより先に、思わず声を張り上げる。
「上越上官……っ!宇都宮も疲れてるみたいなんで、あのっ……」
「僕は、宇都宮に訊いてるんだけど?」
すい、と闇色の瞳が向けられる。その視線が自分を捕らえた瞬間、言葉は喉に閊えて消えた。
上越は、相変わらず柔らかく笑んでいる。声の調子も別段変わった訳ではない。
それなのに、何故か動けなかった。
硬直した高崎を一瞥して、上越の眼がまた宇都宮に戻る。口元の笑みが、にっこりと深まった。
「大丈夫だよね?宇都宮」
「………………」
「宇都宮」
二度目の呼びかけで、宇都宮はのろのろと頷いた。ひょいと眉を上げた上越が、喉の奥で笑う。
「どうしたの、宇都宮。君らしくもない」
呆れたような口調は、ひどく楽しげにも響く。肩に乗せた手が、するりと二の腕を滑った。
「返事は『はい』か『YES』でしょ?」
宇都宮の体が、びくりと強張った。
しばしの沈黙の後、さっき聞いた、掠れた声が呟く。
「……YES、上官」
「あはは、そうそう。その辺ちゃんとしとかないと、煩いのがいるからね」
さっきの威圧感が嘘のように明るく笑って、上越が手を放した。その手をひらりと振り、踵を返す。
そのまま部屋を出て行きかけた彼は、高崎の立つドアの手前で、ふと振り返った。
「……ああ、そういえば。明日の朝は、霧が出るらしいよ」
気をつけてね。歌うように、言った。
「じゃあ、今夜。待ってるよ、宇都宮」
綺麗な微笑みひとつ残して、深緑の制服がドアの向こうへ消える。
一人分の質量が減った部屋に、沈黙が落ちた。
在来共通のものとして在るこの部屋は、二人だけには広すぎる。
「……宇都宮」
躊躇いがちに呼びかければ、しばしの間を置いて、俯いたままの背から声が返った。
「何、用は済んだんでしょ?持ち場に戻れば?」
「……俺の勝手だろ」
拒絶するような言葉に反射的に言い返して、高崎は小さく舌打ちする。乗せられたら負けだ。
「お前、無理すんなよ。キツいなら今日は勘弁してもらえ」
「別に、何処も悪くない。まったくどいつもこいつも、勝手な憶測でものを言わないでくれるかな」
尖った声で、宇都宮が吐き捨てる。どいつもこいつも、が誰に掛かるのかが少し気になったけれど、敢えて聞かなかったふりをした。
「別に憶測じゃねぇよ。上官に期待されて、いいとこ見せたいのは判るけどさ。体が資本って上官も言ってただろ」
「僕は判ってるって答えたはずだよ。その意味も判らないほど馬鹿なのか、高崎」
目を合わせないままの反論は、いつも以上に辛辣だ。普段の彼が見せる、楽しむような軽やかさの失せた声は、何処までも固く冷たい。
まるで、自分の存在全てを厭うように。
頑ななその態度に、また胸の奥が焼ける。
「……大体、なんで上越上官がお前に頼みごとなんかしてんだよ。指揮系統違うだろ」
「直属の部下が当てにならないからじゃない?」
「んだそりゃ、厭味かよ」
「どうとでも取ってもらって構わない。そもそも僕に言う筋合いのことではないだろう?」
もっともなその指摘に、ぐっと詰まる。確かに、選んだのは上越だ。宇都宮はただ部下として従っただけ。
頭では容易に理解出来る、至極単純な構図。
それが何故か、ひどく高崎を苛立たせる。
「……は、お前はいつもそうだよな」
内心の揺れを気取られないよう、出来る限りの虚勢で呆れたような笑顔を作った。
彼がよくする、傲然とした表情。それを真似るように、顎を上げて。
「お前はいつも、要領いいもんな。どうやって取り入ったか知らないけど、俺にはとっても真似出来ねぇよ」
何処までも冷酷に、残酷に。高崎は必死で笑う。
こんな、傷つけるためだけの言葉を使ったのは、初めてだった。
慣れない刃は、ひどく重い。振りおろせば、自分まで傷つけるだろう。
それでも、良かった。
(怒れよ)
怒れ、宇都宮。罵倒しても殴っても、何したっていいから。
(俺を、見ろ)
こんなのは、もう、御免だ。
いっそ祈るような気持ちで、彼の背を睨みつける。
けれど望んだ反駁は、いつまで待っても返らない。高崎の言葉を受け止めた制服の背は、振り返る気配さえ見せずに、ただ凍ったように俯いていた。
「……そうだね」
やがて静かな声が、ぽつりと呟く。初めて聞くようなその音は、何処か柔らかく。
「君にはきっと、一生無理だ」
独り言のように、遠い声。
「無理だよ、高崎」
それはこの世でいちばん残酷で、優しい断絶。
何故か泣きそうになって、高崎は固く拳を握った。
今すぐ、目の前の男にこの拳を振り下ろしたい。焦がれるように思う。
けれどそれは許されないのだと、今、初めて知る。


自分は、見失った。誰よりも近かったはずの、この存在を。何処かで。


二人だけの部屋、空気だけが横たわる空間を埋められないまま。
高崎はそれだけを、はっきりと感じていた。





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季刊すら飛び越えて存続を危ぶまれ、催促哀願懇願脅迫の末にようやく出来た2本目。
ここまで来て前のが序章(つまり話が始まってもいなかった)であったことを初めて明かし、
皆様の度肝を抜いた。つか自分でも驚いたよ。

せめてもの誠意として多少なりとも本題に近づこうとあらん限りのネタをぶち込んでみたら、
まったくもって身内にしか判らないシロモノに。
今更どうしようもないので直しませんが。不親切設計でごめんなさい。J●Sに怒られる……!!
でもとりあえず課題だった台詞を入れられたので満足です!無理やりとか気にしない☆
ていうかここまで書いてまだメインの人物が揃ってないんだぜ!! わーお!