月のないそら。



目の前には、白い扉。
冷たいその色はすべてを拒むようにくっきりと空間を切り取り、その前に立ち尽くすこの体は、指一本動かすこともできないまま。
そのことが悔しくて哀しくて、ただ固く拳を握る。
凍えたような鉄の扉。開かなければ、開いて踏み込まなければ。
失う。

だってこの先には、


( あ    い    つ    が        いる        の     に )





「……――――――ッ」

大きく息を吸い込んだ。
唐突な覚醒に感覚がついていかず、仰向けの視界に天井を映したまま、高崎は数度瞬く。
(ゆ、め?)
頭の芯が痺れたように重い。眼を開けた瞬間に霧散した夢のかけらは、ぼんやりと違和感だけを残して遠く消えていく。
ただひどく、後味が悪い。
数秒のタイムラグを置いて戻ってきた聴覚が目覚ましのアラームを捕らえ、反射のようにボタンを叩く。ゆっくりと体を起こせば温んだ毛布からはみ出した体が冷たい空気に触れて、不随意にふるりと震えた。
じんわりと重い、水気を含んだ空気。この感覚は、知っている。
ベッドから抜け出し、裸足の足を冷えた床にぺたりと降ろして、窓際まで歩く。
引き開けたカーテンの向こうは、予想通り、乳白色に染まっていた。
「……霧、か」
呟いて、サッシの鍵を外した。軽い音を立てて硝子窓を開けると、噎せ返るような湿気が部屋に流れ込んでくる。
夜明け前の空はまだ薄暗く、ぼんやりとした光が細かく砕かれた水蒸気に乱反射して、あたりをほんのり光らせていた。
まるで夢の続きのようなその色の中、ふとひやりとした冷たさを感じ、自分の頬を撫でて。
その時初めて、自分が泣いていたことに気付いた。

今日がゆっくりと、始まろうとしていた。


第二章



「ぅはよーっす」
気の抜けた挨拶と共に開けた扉の向こうには、いつもの顔触れが揃っていた。
最初に振り向いたのは、鮮やかなブルー。
「ちょっと、なんなのその態度。武蔵野かと思ったよ?」
眼鏡越しに眉をひそめて、京浜東北が寄越した小言を、高崎は肩を竦めてやり過ごす。
「悪いな、ちょっと寝覚めが悪かったんだよ。霧、大丈夫だったか?」
「ああ……うん、ちょっと一部遅れた路線もあったけど、今はもう大丈夫」
ね?宇都宮。
ぱらぱらと手元の書類を食った京浜東北が、ひょいと隣に視線を投げた。その動きで初めて、彼の向こうのオレンジ色に気付く。
立っている京浜東北にちょうど隠れるような位置、椅子に腰かけたままの宇都宮が、こちらを見上げて小さく笑う。
「おはよう、高崎」
「あ……あ」
何の不自然さもなく、向けられる声と笑顔。けれど、返すべき声はひどく掠れて無様に響いた。
取り繕うことさえできず、高崎はその場に立ち尽くす。
「高崎?」
不思議そうに、宇都宮が首を傾げる。変わらない、いつもの表情で。
飽くまで崩れないその笑顔に、結局、高崎は屈した。
「……何でもない」
短く言い捨てて、宇都宮の隣の椅子を引く。乱暴に扱われたそれが、床に擦れて耳障りな音を立てた。
「変な高崎」
宇都宮がまた笑った。きっと、誰が見ても疑うことさえしないだろう、その笑顔。
『いつもどおり』であることを、高崎に―――二人に強要する、無言の圧力。
あの日、あの悪夢のような午後。
他でもないこの部屋で、鮮やかに高崎を拒絶してみせた彼は、それ以降、劇的な変化を見せた。
逸らされ続けた眼は当たり前のように高崎を映し、何も変わらぬように話し、笑い、怒る。
二人の間にあったぎこちなさなど忘れたかのようなその態度は、けれどただひたすらに、高崎を打ちのめした。
あの後、再び顔を合わせたのは終電後だった。
逃げ出しそうになる足を必死で控室に向け、扉を開けた高崎を待っていたのは、宇都宮の笑顔だった。
記憶の中のまま、少し意味ありげに微笑む彼の瞳に映った自分に、ぞっと背筋が凍ったのを今でも憶えている。
鏡のように高崎を映した虹彩は、高崎を見てはいなかった。
反応も、表情も、会話も、すべては正常。まるで高崎に合わせて、プログラミングされたように。
それはまるで、精巧な人形と話しているような感覚だった。吐き気すら覚えて、高崎は思わず口元を押さえた。
そうしてもう、戻れないのだと知った。
自分は間違えたのだ。取り返しようもなく。
「高崎?」
呼ばれて顔を上げれば、黒い眼がこちらを見ている。
肩の触れる距離。制服の布越しの体温も、緩やかな呼吸も、湿気に濡れた髪の香りさえ感じ取れるのに。
(うつのみや)
呼ぶ声は、もう届かない。呼ぶことすら、許されないのだ。
「大丈夫?今日おかしいよ、なんか」
「……別に。お前こそ、今日は遅延しなかったのかよ」
当てつけのような言葉に、宇都宮は一瞬きょとんと眼を見開いて。すぐに苦笑する。
「やだな、僕だって毎回霧に負ける訳じゃないよ。見くびらないでほしいね」
「……そーかよ」
会話するだけで、どっと疲れを感じる。それ以上の会話を打ち切るように、ミーティング用の書類をおざなりにめくる手元に、すっと茶封筒が滑り込んだ。
「……何」
短い問いに、宇都宮がにっこり微笑む。
「上越上官から」
その答えに、ちりっと胃が焼けるのが判った。
乱暴に拾い上げて、手で封を切る。年末に向けての特別ダイヤに関する資料だった。
「―――また上官とこ行ってたのかよ」
ざっとタイトルを見ただけでまた封筒に書類を突っ込みながら、顔も見ずに訊ねた。口調が不機嫌になってしまうのは、舌打ちを寸でで堪えた代償だ。
「うん、昨夜呼ばれたからね」
さらりと答える涼しい声が憎たらしい。こっちがどんな気持ちになるのかも知らないで。
その苛立ちの根が何処にあるのかも気づけぬまま、高崎の声が勢い尖る。
「いつの間にそんな仲良くなったんだよ、あの人と。つうかたまには断われよな」
「君に言われる筋合いのことじゃないね」
書類に視線を落としたまま即答されて、言葉に詰まった。
(関係ない)
突き放す言葉。それは、どちらに掛かるのか。
―――どちらでも、最早同じなのか。
「……そりゃそうだけど。業務に支障をきたすようなら……」
「きたしてないだろう、別に」
呆れたような声が、高崎の精神をささくれ立たせる。聞き分けのない子供に対するような、その態度。
喚き散らしてやりたくて、けれど出来ずに、零れる言葉だけが冷たさを帯びていく。
「そう言って、こないだも遅れたくせに」
あの、断絶の日。その翌朝も、今朝のような霧が出ていた。
急に寒さの増した朝、少し青褪めた顔をして遅延を出した彼に、高崎は結局何も言えなかった。
宇都宮の背が、高崎のすべてを拒絶していた。
思い出したくもないその日のことが口をついたのは、自分でも予想外だった。
思わずがばと顔を上げ、隣の宇都宮を振り返る。
瞬きも出来ない視線の先で、彼はゆっくりと顔を上げて。
深く、笑った。
「心配しなくても、もうしないよ。―――慣れたから」
京浜東北の伸びる声が、ミーティングの開始を告げる。
それきり、宇都宮の眼が高崎を見ることはなかった。







「上越」
背後から呼び止められて、上越は足を止めた。
ゆっくりと一呼吸してから、口元に笑みを浮かべて、振り返る。
「東北。どうしたの?」
問い掛けには答えず、東北は無言で距離を縮めた。迷わない、規則正しいストライド。磨かれた廊下に、革靴の踵が硬い音を立てる。
自分と同じ深緑をまとった彼が近づいてくるのを、上越も無言で待った。
やがて相対距離を二歩まで縮めた東北が、前触れなく本題を切り出す。
「お前、今朝は何処にいた?」
言い逃れを許さない口調。あまりにも彼に似合いのその響きに、上越は思わず吹き出す。
「何を笑っている」
「だって東北、先生みたい」
「茶化すな」
ふう、と東北がため息をついた。苛立つでも、焦るでもなく、ただ本当に、出来の悪い生徒を前にした教師のように。
根気強く、本題を引き戻す。
「今朝、ミーティングに遅れただろう」
「ああ、寝坊したんだ」
「起こしに行った長野が、お前がいないと半泣きになっていたぞ」
「………………」
上越が無言で口の端を引き上げる。ふふ、と零れた笑い声は、何処か芝居がかって白い廊下に落ちた。
「……相変わらず、野暮だなあ東北。詮索も程々にしないと、嫌われるよ?」
歌うように言った白い指が、するりと一本延ばされる。整えられた人差し指の爪の先が、皺ひとつない東北の詰襟に触れて。
するりと一直線に胸を撫で下ろし、飾り紐に絡んだ。
「長野には、うまく言っておいてよ。次からはバレないようにするから」
ね?ことりと小首を傾げる面を、黒い髪が流れて縁取る。
少し低い位置からその色を見上げて、東北はまた小さく吐息した。
それが合図であるかのように、上越が紐に絡めた指を解く。
かつんと踵を鳴らして離れる瞬間、東北がぽつりと言った。
「髪が伸びたな」
「―――――――」
上越の喉が、ひゅっと鋭い音を立てる。ほの赤い唇が一瞬、噛み締められて。
「明日切りに行く。―――言われなくても、伸ばすつもりなんかないよ」
攻撃的なまでに鋭い声で言い切って、上越はくるりと踵を返した。
走るような早足で廊下の向こうに消えていく背を、黙したまま見つめていた静かな視線は、やがてゆっくりと伏せられて。
三度落とされた溜め息を掻き消すように振り返った背も、来た時と同じ速度で戻っていった。







朝のラッシュが引いたホームは、一瞬だけ閑けさを取り戻す。
エアポケットのようなその時間は、高崎にとっても貴重な休息の時だ。どうせすぐに一般利用客の波が来ることは判っているのだから、休める時に休んでおくに越したことはない。
自販機で暖かいコーヒーを買って、ホームのベンチにどかりと腰を下ろす。プルタブを引き開ければ、糖分過多ながら香ばしい香りが痺れた頭を癒してくれた。
コートなしでいるにはいい加減厳しい季節になってきたな、と思いつつ、悴んだ指先を缶に押しつける。じんわりと解けていく途中で、麻痺した神経がちりちりと疼く。きっともうじき、手袋なしではいられなくなるのだろう。
そこまで考えて、ふと脳裏に再生された映像に、高崎は眉を顰めた。
オレンジ色の制服の肩に置かれた、細い指先。
いつも白い手袋に包まれているその手は、上等な布の色を移したように白く、作り物めいていた。まるで、よく出来た磁器人形のように。
思い出すたびに、胸が焼ける。
この感情は何なのだろう。焦燥か、嫉妬か。―――誰に対しての?
「あー……」
がくりと項垂れて、コーヒーを持っていない方の手で己の髪を掻き回す。あの日から何度陥ったか判らない思考のループは、高崎をひどく疲れさせた。
「高崎!」
不意に聴覚に割り込んできた第三者の声に、視線だけをスライドさせる。その先には、自分とよく似た色の制服と、黒い髪。
うつのみや。思わずその名が口を突きそうになって、瀬戸際で呑みこんだ。違う、あれは、
「……東海道」
「何サボってんだお前」
少し早足で階段を上ってきた彼は、ベンチに伸びた高崎を見て嫌そうに顔を顰めた。そんな顔をすると、彼は兄によく似ている、とどうでもいいことに気付く。
「休憩だ、休憩。そっちこそなにしてんだ、こんなとこで」
もう取り繕う気もなく体を伸ばし、頭をベンチの背に持たせかけただらしない体勢で言い返す。
が、すぐに帰ってくるかと思われた小言染みた反論はなく、少し距離を置いて立ち止った東海道はきゅっと鋭角に眉を寄せたまま、迷うように視線を逸らした。
「東海道?」
その様はあまりに彼に不似合いで、高崎も体を起こす。
続く言葉を待つ視線と沈黙に晒されて、居心地悪げに身じろいだ東海道が、向こうのホームを見つめたまま口を開いた。
「……お前に、言っておきたいことがあって」
「俺に?」
意外な言葉に、高崎が小さく眼を瞠る。その眼に頷いて、東海道は大きく息を吐き出した。
「……宇都宮の、ことだけど」
言いづらそうにその名を口にして、東海道がちらりと高崎を窺う。その視線の先で、自分の表情が一瞬強張ったのが判って、高崎は思わず顔を背けた。
「……宇都宮がどうしたって?」
押し出した声は、自分の耳にさえ白々しく響いて、ポーカーフェイスの出来ない自分に嫌気が差す。同時に、踏み込まれたくない領域に踏み込まれた不快感で、自然、声が尖った。
「お前には関係ないだろ。第一、最近はうまくやってる」
少なくとも、そう見えているはずだ。周りには。
けれど東海道は、目元を歪めて高崎を見つめた。なにか、痛ましいものを見るように。
「本当に、そう思ってるのか?高崎」
静かな問い掛けは隠しきれない非難を孕んで、高崎を追いつめる。
「……判ってるんだろう、お前にも。このままじゃ駄目だってことくらい」
憐れむようなその眼と声音に、思考が赤く霞んだ。
「高崎、あいつは」
「じゃあどうしろって言うんだよ!!」
力任せにコンクリートに叩きつけられたスチール缶が、がん、と耳障りな音を立てた。
底に残ったコーヒーが、灰色のホームにじわりと染みを作る。じわじわと広がっていくその色を、二人はただ黙って見下ろしていた。
「―――京浜東北が」
やがて冷えた空き缶を拾い上げた東海道が、ぽつりと呟いた。抑揚のない声で。
「言ってた。俺たちにはどうしようもないんだって。……宇都宮がそう決めたなら、仕方ないって」
その言葉を容れられない自分を知ってそれでも、それは事実だと諦めた声が、冷えた空気の底に落ちていく。どうしようもない痛みを伴ったまま。
諦めなければならないと知って尚、諦めきれないものを教えるように。
透明な眼が、縋るように高崎を見た。
「高崎。……お前なら、なんとか出来るんじゃないのか……?」
嘘も逃げも許さない瞳に晒されて、高崎の背が微かに震えた。
(高崎、お前なら)
どうして、皆。俺にばかりそんな眼を向けるんだ。
(俺はあいつじゃない)
架線を共有して、背を預けて、そうして双子のように走っていても、自分たちは結局のところ、決定的に分かたれていて。
その薄皮一枚の距離は、決して踏み越えることが許されぬまま、厳然とここにある。
「俺は……あいつじゃない」
言葉に出して言えば、その事実はひどく重く冷たく圧し掛かる。その重さに潰されそうな高崎の襟元を、強い力が掴み上げた。
「ふざけんな……っ!」
ベンチから無理やり引き上げられて、絞り出すような罵声にのろのろと顔を上げれば、怒りと痛みを湛えた東海道の眼が、すぐ近くで高崎を睨みつけていた。制服の布地を掴み閉めた拳が、白く血の気を失っている。
「お前は、誰だよ!? 高崎線だろう!?」
叩きつけるように、東海道が叫んだ。
「お前とあいつが違う存在だなんてことは、誰でも知ってる!……でも、それでも、あいつとずっと一緒にいたのは、お前だろう……!?」
「………………」
がくがくと揺さぶられた。もどかしさを伝えるように。
隠しようもなく歪んで、それでも逸らされない瞳を、間近でただ見つめる。
「そんだけ一緒にいて、すく側にいて……今更離れるなんか、出来る訳ないだろうが!!!!」
違うからこそ。分かたれているからこそ。
繋ぎとめておかなければならないのだ。離れることが出来ないのなら。
二人で在ることは、はじめから当たり前などではなかったのに。
「……東、海道」
呆然と、高崎は目の前の男の名を呼んだ。
頭を殴られたような衝撃に、くらくらと目眩がする。
(ああ、俺は……どれだけ)
ここまできてようやく、何処かで逃げていた自分を思い知らされる。
眼を逸らしていた。宇都宮の拒絶を言い訳に使って、手を伸ばさない理由にして。
一度間違えた道は、もう引き返せないのだと自分に言い聞かせて。
そうやって、触れることを避けていた。
じんと右手が痺れる。あの雨の廊下で、許されなかった指先。
あの白い手が触れた肩に、届かなかった痛みに怯えて、伸ばすことさえしなかったこの手を。
今、この透明な視線が断罪している。彼の代わりに。

―――そういうことならまあ、放っておくほうがいいのかな。

―――そういうとこが、君の良い処でもあるし。

自分以外の誰もが疑わなかったその権利と義務を、自分だけが知らなかった。
自分だけは、背を向けてはならなかったのだ。拒絶されても、疎まれても―――そのことで彼を傷つけても、あの手を離してはならなかったのに。
いつだって彼はそうして、この手を引いてくれていたのに。
(たかさき)
どれだけこちらが嫌な顔をしても、いつもあのひと癖ある笑顔で。
笑って、触れて、名前を呼んで―――そうやってずっと二人、歩いてきたはずだったのに。
自分だけが、あの手に甘え続けていた。
いつだって、あの手が離されることはないと勝手に思い込んで、裏切られたと勝手に傷ついて。
どれだけ。
「俺……っ」
込み上げてくる吐き気に口元を覆う。膝が抜けそうな喪失感に、視界が暗くなる。
「…………ッ」
縺れるように走り出した高崎の腕を、東海道が引いた。強い力で引き戻して、至近の近さでひたと視線が合わされる。
「高崎。上越上官に気をつけろ」
「―――え?」
唐突な言葉は、けれど流すことを許さない強さで。意味を取り損ねて、高崎は数度瞬く。
「……それ、どういう」
「俺にも判んねぇ。でも……厭な予感がするんだ」
あの笑顔は、信用できない。
在来の中で誰より深く高速鉄道の面々と関わっている彼の言葉は奇妙な重みを持って、高崎は釣り込まれるように頷いた。頭の隅にちかりと、あの白い指先が閃く。
東海道が腕を離した瞬間に、踵を返す。ただ無性に、宇都宮に会いたかった。
会って、眼を見て、拒まれても逃げられてもその手を掴んで―――。

それだけで、また並んで歩いて行けると、信じていた。







その朝も今日のように、ひどく霧の深い朝だった。
昨夜あんなに晴れていたはずの空は真っ白な靄に塗り潰され、数メートル先さえ見通せないほどで。
だから、自分が起き上がれずに始発を運休させても、誰も疑わなかったのだ。
生温い毛布の中、胎児のように体を丸めて、宇都宮は固く眼を瞑っていた。毛布の繭はひどく頼りないけれど、今だけは外の世界のすべてを遮断してくれる。ボロボロに擦り切れた体と精神は、休息を渇望していた。
体中の至る所が鈍く軋んで、身じろぎするたびに痛みを覚える。頭が重いのは泣いたせいだろう。目尻の皮膚もひりひりと乾いて、きっと腫れているだろうことは容易に想像がつく。
もっと悪いのは、体の芯に燠火のように残る疼きだ。
たった一晩で作り変えられた体は、苦痛の中にも快感を拾おうとする。その貪欲さに吐き気がした。
(死んでしまえばいいのに)
乾いた呪いのようにぼんやり浮かぶ言葉の、目的語さえ判らない。
そっと寝間着の上から手首を撫でる。まだ乾かない傷が布に擦れて、じくりと濡れた痛みを脳に伝える。
この傷から腐っていければいいのに。腐って溶けて、この世界から消えてゆければいいのに。
飽和した脳は何処かで限界を迎えたらしく、憶えているのは冷たい銀の光と肌を這う白い指先だけで、無意識に欠落を埋めようとする生理的反応がまた宇都宮を追いつめる。
忘れたいのに、夢だと思いたいのに、自分自身がそれを許さない。
(最悪だ)
袖を引っ張って傷を隠し、更に小さく体を丸める。
そのままうとうとと眠りに落ちようとするのを、控えめなノックの音が妨げた。
「……はい」
もそりと毛布から顔を出し、短く応える。ドアノブを回して入ってきたのは、高崎だった。
「よ。具合どうだ」
「……何の用?」
答える声は、不機嫌に尖った。が、そんな対応には慣れている高崎は気にも介さず、勝手に椅子を引っ張ってきてベッドサイドに陣取る。
「お前、朝も食ってないだろ?桃缶持ってきた」
手に持ったビニール袋を掲げて、屈託なく笑う。途端襲ってきた感情の嵐に、宇都宮はばさりと毛布を被り直した。
「馬鹿じゃないの。余計なことしてる暇あったら持ち場に戻ったら」
「ちょっとは大丈夫だって。つか、こんなとこで寝てる奴に言われたくないぜ」
いつもと逆の力関係が嬉しいのか、高崎の声は何処か弾んでいる。ぱかりと桃缶を開ける音がして、何故だか泣きそうになった。
「……午後には出る。君もさっさと戻りなよ」
可能な限り冷たい声で突き放しても、すぐ側に座る気配は動こうとしない。どうやら徹底的に宇都宮の世話を焼くことに決めたようだ。
(馬鹿な高崎)
何があったかも知らないで。
いつもの朝、いつもの笑顔、その中で自分だけが昨日とは違う場所にいる。
もう戻れないのだ。あの場所には。
昨夜起こったことを知ったら、高崎はどう思うだろう。
軽蔑するだろうか、怒るだろうか、それとも――― 泣く、だろうか。
どちらにしても、彼が知る必要はない。彼は何も知らずに、そこでそうやって笑っていればいいのだ。馬鹿みたいに、屈託のない笑顔で。
「宇都宮、桃食べろよ。ホラ」
毛布越しに、甘い香りがした。そのそぐわなさに、思わずちいさく笑う。
(馬鹿な、高崎)
クスクス笑いながら、ぎゅっと手首を掴んだ。きつく。傷口が開いて、血が滲むほどに。
しんでしまえばいいのに。
「何笑ってんだよ、変な奴。桃ここに置いとくからな」
食べさせるのを諦めたらしい高崎が、溜め息をつくのが聞こえる。
「悪くなんないうちに食えよ、コレ上越上官がわざわざくれたんだぞ」
一瞬、心臓が止まった気がした。
がばりと毛布を撥ね退けて体を起こす。突然の動きに眼を丸くした高崎の向こうに、白い皿に盛られた桃が見えた。
まとわりつくような甘い芳香が、部屋いっぱいに満ちている。ナイフを入れればすぐにどす黒く色を変える、刹那の瑞々しさ。
「……何処で」
掠れた声に、高崎が呑まれたように瞬いた。
「え?ああ、上官なら今来る時にそこで会って……」
頭がぐらぐら揺れた。息がうまく出来ない。
濡れた傷口から、ゆっくりと腐っていく。
「東北上官の代わりに見舞いに来て下さるつもりだったらしいんだけど、忙しい人だから。俺が行くって言ったらじゃあ渡しておいてって……宇都宮?」
「帰って」
え?と高崎が眼を瞠る。
「帰れ、高崎!!」
飛びつくようにその肩を掴んで、無理やり部屋の外に押し出した。
音を立ててドアを閉め、鍵をかける。震える手でチェーンまで掛けてから、ドアを背にずるずると座り込んだ。
「宇都宮!? おい、何なんだよお前!開けろって、おい!?」
だんだんと高崎が扉を叩く震動が背骨に響いて、宇都宮は膝を抱えた。ちいさく丸まって、腕に強く顔を押しつける。
冷えた扉と床がじわじわと体温を奪って、剥き出しの爪先はすぐに白く冷えていく。
小刻みに震える体が寒さのせいか、それとも別の衝動なのかすら判らないまま、高崎が諦めて去っていく足音がしても尚、宇都宮はただその場にうずくまっていた。
テーブルの上では、置き去りにされた桃が、ゆっくりと色を変えていく。
一度ナイフを入れた果肉は、あとは腐敗へと進むだけで。
もう二度と戻れない。この、浅ましい体と同じように。
(高崎)
もう二度とあの笑顔の隣に立つことは許されないのだと、強く思い知らされる。
喪ったのだ。自分は、あの場所を。

それが、自分が望んだ結末だったとしても。







さらりと何かが肩に掛かる感触に、宇都宮は眼を開けた。
霞む視界に、見慣れた景色が映る。控え室。
どうやら転寝していたらしいと気付いたけれど、まだ覚醒していない体は無意識に掛けられた何かを引き寄せ、眠りの縁に戻ろうとする。
誰かがくすくすと笑う声がした。
「宇都宮。駄目だよ、起きて」
「……たか、さき……?」
目醒めきらない頭で思わず呼んだ名に、背後の誰かは一瞬虚を突かれたように押し黙って。
直後、爆笑した。
「あははははっ、可愛いね宇都宮!録音しとけばよかった!」
ひどく楽しげなその声に、一瞬で意識が冴える。一番聞きたくない声。
「上越、上官……?」
跳ね起きた拍子に、肩に掛けられた上着が落ちた。深緑に、金のライン。
「優しくしてみるもんだね、楽しませてもらっちゃった。君、面白いよ宇都宮」
目尻に涙まで滲ませて笑う上越は、いつものようにだらしなくではあるものの、しっかりと上着を着ていて。
咄嗟に拾い上げた上着と彼のそれを見比べた視線に気づいて、上越がああ、と眉を上げ。
口の端を吊り上げる。
「それね、東北のだよ」
「―――――!!」
宇都宮が息を呑んだ。こころなしか青褪めたその頬を、手袋に包まれた指がするりと撫でる。
「前に借りて、そのままだったの。ふと思い出してさ。……嬉しい?」
宇都宮の顔から、さらに血の気が引いた。震える手が、手にした上着を握り締める。
あからさまな動揺を載せたその眼を捕らえて、上越はいっそう深く笑った。頬に添えた手を項へと滑らし、ぐいと引き寄せる。唇が触れる、一歩手前まで。
「……気付かないと思ってた?」
「な……んの、こと、ですか」
「ああ、しらばっくれるんだ?」
吐息の触れる距離で嘲笑した唇が、宇都宮の首筋へと落ちた。頸動脈の上を強く噛まれ、強張った体がびくりと跳ねる。
詰襟に隠れきらない微妙な位置につけた血の滲むほどの歯形を、上越の指先が辿る。真白の手袋に、鮮やかな赤い染みが落ちた。
酸素に触れて、すぐに黒く変色する生きた赤。
「贅沢だと思わない?そんなふうにあっちもこっちも欲しがって、もの欲しげな眼で媚売ってさ」
ぎゅっと強く傷口を擦られて、宇都宮が堪え切れず呻いた。
「そんなこと、許される訳ないじゃない」
柔らかな声と裏腹に、宇都宮を見据える瞳はひどく冷たい。憎しみと嘲りと、それ以上の何かを混ぜ合わせた黒檀の眼が、氷の矢のように宇都宮を縫いとめる。
言葉もない宇都宮からするりと離れた上越が、にっこりと笑った。
「脱いで」
「――――――」
「聞こえなかったの?ホラ、早くしないと、誰か来ても知らないよ?」
残酷に言い捨てる声は楽しげにすら響く。逃げられないことを知って、宇都宮はただ手にした深緑の布地を握り締めた。
無意識のその行動に、上越がわずか、眼を細める。
「……ああ、いいよ。許してあげる。それ抱き締めてれば?」
あいつに抱かれてる気分になれるかもね。
これ見よがしな笑みと共に投げつけられた言葉に、宇都宮はぎりっと歯を食いしばった。
「……上官……っ」
「何?今更違うとでも言うつもり?あれだけあからさまな眼をしておいて」
すうっと上越の眼から笑みが消えた。伸ばされた手が宇都宮の制服の合わせを掴み、勢いよく左右に引き開ける。嫌な音がして、金具が飛んだのが判った。
「ホラ、手伝ってあげたんだからさっさと脱ぎなよ。ボタンも飛ばされたい?」
「………………っ」
有無を言わせぬ言葉と視線に、宇都宮は陥落した。
握りしめていた制服を置き、のろのろとシャツのボタンに手を掛ける。
上からゆっくりと外されていくボタンと晒されていく肌を、上越は無感動に眺めていた。監督者のような眼差しに、宇都宮は耐えきれず俯く。
この行為に、一切の熱は存在しない。最初の、あの夜から。
上越が宇都宮に向けるのはただ冷たく凍てついた眼差しだけで、触れる手も最後まで氷のように冷え切っていた。
その下で宇都宮の感情も高ぶることはなく、それでも快楽を憶えた体だけは勝手に快感を拾ってゆく。
その二律背反は、体のダメージ以上に宇都宮を消耗させるのだ。
「へえ、まだ結構残ってるんだ。ちょっと意外かな」
露わになった肌に残る無数の痕に、上越が面白そうに呟いた。下まで外されたシャツを掻き分けて、観察するようにその肌を辿る。昆虫標本を愛でる子供の手つきで。
するりと白手袋が抜き取られて、いつでもひやりと冷たい指先が胸に触れた。氷を押し当てられたような感触に、体が竦む。
肌蹴た制服の下から差し込まれた指先は滑るように背骨を辿り、確かめるように前に戻って。
胸郭の真ん中を、とん、と押した。
「――――――ッ!」
それほど強い力ではなかったものの、タイミングと位置の絶妙さに宇都宮は為す術なくバランスを崩す。さっきまで伏していた机に無様に背を打ちつけて、痛みに喉が音を立てた。
背けた顔のすぐ傍に、あの深緑の上着が無造作に置いてある。縋れ、とでも言うように。
考えるより先に、手が伸びた。
「……体は素直だね、いつも」
顔を押しつけるように上着を抱き締めた宇都宮を、上越は眼を細めて見下ろす。その眼からは、一切の感情が削げ落ちていた。
あるのはただ、冷たい火のような衝動のみ。
指先が宇都宮の顎を捕らえ、ぐいと上向かせる。頤を外されそうな力で掴まれて、思わず口を開けたところにぬるりとしたものが侵入してきて、宇都宮は必死で眼を瞑った。
口腔を蹂躙してゆく蛇のような舌は、容赦のない動きで頭を霞ませていく。呼吸さえ奪われそうな口付けに、目尻に生理的な涙が滲んだ。
(                )
遠ざかる意識の奥で、誰かの名前を呼ぶ自分に気付いたけれど、その影すら一瞬で霧散する。
勝手に発火する体が、じわりと汗ばんでいくのが判る。
たすけて。たすけて、だれか。
だれか、ぼくをとめて。
だれか、
だれ――――。

( た      か    さ        き )

「宇都宮っ!」
ばん、と音を立てて扉が開く。

大きく開け放たれた扉、その向こうに立ち尽くす見慣れた姿を、宇都宮は悪夢でも見るように見た。
ああ、これは―――あの夢の、続き。

「た……かさ、き」

何かがゆっくりと壊れていく音を、その時、聞いたような気がした。





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皆さん大丈夫ですか、ついてきてますか。
いろいろやっちゃった自覚はあります。
何よりかによりうっつーが乙女ですみません……お前は誰だ……!
とりあえずこのくらいならRはつかないって信じてる。

今体調最悪なせいで文章が大変なことになってます……。
復調したらこっそり手を入れようと思います。