ペーパークラウン



憧れの人は、他にいた。

毅くて綺麗で脆いひと。
出逢った日からずっと、あの背だけ追いかけていた。
落ち込んだ肩に届かない手が悔しくて、早く大きくなりたいと願った。

でもいつからか、あの人の眼が見ているただひとりに気付いて。
同時に、俺と同じ、届かないまま引かれた手に気付いた。
誰にも気付かれないその指先が、ひどく気になった。
茶化す素振りで差し出された、取られなかった手の渡そうとしたもの。
見える面とは裏腹な、寂しくてあたたかそうなそれを受け取らなかったあの人に、腹が立った。多分気付きもしていないのだろうとは、知っていたけれど。

誰にも気付かれず、捨てられていくもの。
なら。

俺が貰ったって、いいじゃないか。



大型連休は、稼ぎ時だ。
それは鉄道路線にも同じこと。
まして、日本の誇る交通の動脈、高速鉄道ともなれば、尚更に。
「みんな頑張るなぁ……」
がらんとした部屋に、呟きは受け取る相手もいないまま落ちて消える。
誰にも聞かれない言葉は、言葉になれるのだろうか。
在来の部屋ほどではないにしろ、いつもそこそこの人口密度を保っている部屋も、今日ばかりはがらんと人気がない。きっと皆、忙しく働いているのだろう。
「暇ヒマひーまー?」
歌いながらも語尾が上がるのは、実のところ自分も、ちっとも暇でなどないからだ。ただ、在来の混乱の余波でぽかっとダイヤが空いてしまっただけで。
なにせつい最近『昇進』したばかりなので、まだなにかと脆い。まあすぐに回復するけれど。
取りあえず降って沸いた休憩とでも思うか、とソファの背に頭を凭せれば、不意にドアがかちゃりと開いた。
「……なんか今不吉な歌が聞こえたぞ。気のせいだよな?」
思い切り眉を顰めて、同僚であり先輩である茶髪の青年が、ドアの前からこちらを見ている。
揃いの制服が何処となくよれっとしているのは、やはり彼も、大忙しだからだろうか。
緩んだ襟元に伸びそうになる手を握り込んで、にっこり笑う。
「ああ、僕ですそれ。今すげぇ暇で」
「暇!? 暇って言ったかお前!? こ、のっ、GW初っ端の掻き入れ時に!?」
視線が殺気を孕んだ。どうも本当に余裕がないらしい。
いつもの彼ならば飄々と、むしろ軽口で乗ってくるくらいの場面なのだけれど。
(ま、どっちでもいいけどね)
無視されなければ、それでいい。我ながら安い幸福だ。
「別に好きで暇なんじゃないですよ。在来が遅れてて」
「アッサリ煽り食らってんじゃねーよ阿呆!」
「秋田先輩も遅れてますよ」
「……あいつは人が良過ぎんだよ」
苦々しく呟いてコーヒーサーバーに向かう彼を、上目の視線だけで追う。
「それは」
向けられた背を、じっと見つめた。
「僕も、お人好しってことですか?」
からからとスプーンを回す音がした。
その音しか、しなくて。
(ヤバ)
失敗したかな。
ちょっと不安に思った時、視線の先で彼がくるりと振り向いた。
ちゃりん、入れっ放しのスプーンが鳴る。
「阿呆かお前」
心底呆れた眼で。
「お人好しなんてもんか、お前が」
自己中なお子様のくせに。
感情は綺麗に覆い隠されて、ただ、当たり障りのない毒舌として耳に届く。
つまらなくて、思わず口が尖った。目敏く見留めた彼が、厭味ったらしくニヤリと笑う。
「そういうとこが子供だっつうんだよ」
勝ち誇ったような声だった。そういうあんたこそ子供だよ、心の中だけで呟く。
あんたなんて、見たいものしか見ないだろ。
(俺を子供にしときたいのは、そっちのくせに)
ものすごい鬱がやってきそうで、腹立たしい笑顔から目を逸らしてソファに伸びた。
一人がけの、上等な玉座。
「ダラけんなよ、怒られっぞ。ただでさえ遅延中の分際で、よりにもよってその席で」
またも呆れたような声が、ご丁寧に溜息まで落として忠告をくれる。
「嫌われても知らねーぞ。憧れの君に」
胃の奥の方が、いらっとした。
「心配してくれなくていいですよ。あのひとは、何だかんだで僕には甘いですから」
傲慢な子供の笑顔で得意げに笑ってみせたら、彼の眼から余裕が消えた。
一瞬だけ笑顔の失せた表情に、ほんの少し留飲が下がる。
ざまあみろ。
「……じゃあ椅子なんかに懐いてないで、さっさと甘い先輩に慰めて貰いに行けよ」
コーヒーを注ぎ足すふりで、彼が背を向ける。
(さっきから一口も飲んでないくせに)
バレバレだけれど、そんなこと迂闊に指摘して逃げられたくはないので口を噤んだ。
代わりに、振り返らない背を見つめて、子供のように膝を抱える。
「嘘ですよ」
出てきた声の平坦さに、自分でも驚く。
「あのひとがそんな依怙贔屓、するはずないでしょ」
誰より誇り高い、JRの輝ける星。
一切の妥協を許さない高潔と潔癖、むしろ脆さに繋がる程の頑なさは、あのひとを構築する最も重要なファクター。
そんなこと、誰よりよく知っているくせに。
「慰めてもらいたきゃ秋田先輩んとこ行きますって、遅延仲間だし。第一僕、昇格してから、なんか避けられてるし」
「……お前が迫ったからだろ」
「うん、まあそうなんだけど」
軽く肯定したら、また黙りこまれた。理由はなんとなく判る。
判るけど、助け船なんか出してやらない。
とことん泥沼に嵌まって、いくらでももがけばいい。ひどく冷静にそう思う。
「何だかんだで優しいから、あのひと。突っ撥ねることも出来ないんでしょうね」
可愛いよね。他人事のように言って、くすりと笑った。
わざと音を立てて席を立って、足音を立てて近付いて。
振り向かないけれど逃げもしない背に、あと一歩で届く位置で、立ち止まる。
強張った肩に触れたくて、指先が熱を帯びた。
「あんたとは正反対ですね。突っ撥ねておいて、でも逃げもしない」
卑怯だよね。聞こえよがしに独りごちれば、ぱっと向けられた眼に睨まれる。
色素の薄い眼に、蛍光灯の灯が反射して、硝子のように光った。
ああもう、こっち向かすのも一苦労だ。
「当て馬って判ってて、わざわざ反応してやる理由が何処にあんだ。自己中も大概にしろよ、クソガキ」
ああまた。
(受け取られない言葉は)
受け取られない、想いは。
いつになったら、本物になれるのだろうか。
「ねぇ、先輩」
いつの間にか見下ろすようになっていた、思いの外白い頬を、指先でそっと辿る。
制服の肩が、ぴくりと強張った。
「どうして、戻って来たんですか?」
誰もいないと判っていたはずの、この部屋に。この忙しい最中に、わざわざ持ち場を離れて。
「寂しいの、嫌いなくせに」
意地悪かな、と思いながら問えば、長めの髪から覗く耳朶がうっすら染まる。
心臓が、小さく跳ねた。
「……お前が」
逸らしそうになる眼に必死で力を込めて、彼が俺を睨み付けた。
「お前が。いっちょ前に、遅延なんかしやがるからだろが」
「……え」
それって。
「気がついたらいねぇから、事故りでもしたかと思うだろ」
「……僕達が事故ったら、もっと大騒ぎになると思うんですけど」
あああ、そうじゃないだろ俺。
「うるっせーな!もしそうなら揶揄ってやろうと思っただけだっ」
案の定、すぐさまがあっと吠えられて、慌てて肩を掴んだ。ここで逃げられたら敵わない。
「や、ごめんなさい、そうじゃ……そうじゃなくて」
なんだかつられて、こっちまで耳が熱くなってくる。
だってこれ、もしかして。
「もしかして……心配、とかしてくれてました?」
「……悪かったな、余計なお世話でよ」
今度こそふいっと目を逸らして、ぼそりと彼が呟く。
横を向いた拍子に揺れた髪から微かに汗の匂いがして、本当に忙しかったんだ、とぼんやり思った。
(なのに、来てくれたんだ)
言葉に詰まった。
落ちた沈黙をどう思ったのか、そっぽを向いたままの彼が、間を埋めるように口を開く。
「残念だったな、あいつじゃなくて。でもまあ、憧れの君の席に座れたんだから良しとすれば?あいつの匂いくらいすんだろ」
早口で捲し立てるように言って、俺の手から逃れようとした彼の髪を抱き込み、強く肩に押しつけた。
首筋に掛かる吐息の熱さに、目眩がする。
「あのひとの匂い、しますか」
逃がさないように、背に回した腕で閉じ込める。指に絡む髪が軋んで、彼が息呑んだ。
「どうかな。結構長いこと座ってたから、移ってると思うんだけど」
「お前……っ」
「ドキドキ、する?」
ぎゅっと、腕に力を込める。意外と腰が細くて、少し笑った。
そんなことも、まだ知らない。
「……あのひとになれば、あんたに欲しがってもらえるのかな」
幼い頃に見た、あの届かない指先を。今なら握り返してあげられるのに。
「……だからお前はガキだって言うんだ」
もう逃げようとはせずに、ただ似合わない静かな声で、腕の中の人が息を落とす。
何かどうしても届かないものを、諦めるように。
「お前が欲しがってんのは、疵を舐め合う相手だ。間違えんな」
聞き分けのない子供を宥める仕種で、大人びた手で背を叩いて。
「急にでかくなって、いろんなもんが見えちまって。寂しいだろうけど」
いつか、大丈夫になるから。
慰めのための手は何処までも優しくて、もどかしさに泣きそうになった。
以前ならば、泣いて縋れたのだろうか。そんなことさえ、もう思い出せないけれど。
(卑怯者)
疵を舐め合う相手が欲しいのも、諦められないのも、自分のくせに。
認めたくなくて逃げ続けて、差し出された手の取り方も忘れたくせに。
「北陸?」
いつの間にかこちらを見上げていた彼が、そっと手を伸ばす。
「泣いてんじゃねぇよ、ガキが」
「……泣いてないっすよ」
笑いながらさっきと逆に頬を撫でられて、それしか言えなくなった。
冷たい指先をそっと握って、口付ける。指から驚いたような目許に、額に。
最後に唇に触れても、彼は逃げなかった。そのことに安堵して、もう一度、今度は深く唇を合わせる。
「……手近で間に合わせてんじゃねえぞ、思春期」
噛み付くようなキスの狭間で、苦々しく彼が唸る。
「いい加減、逃げるのやめろよな、先輩」
そういうのも、可愛いけれど。
いつまでも待ってやれる程、大人じゃない。
「あんたが認めたくなくないなら、それでいいですよ。……諦めてなんか、やらないから」
伸ばした手を引くのは、一度で充分だ。あんたも俺も。
「怖がってなよ。信じさせてやるから」
あの手ごと全部、疑う隙もないくらい。
俺が全部、貰うから。
「ほ…くり、」
く、彼が言い終わるより先に、高らかに電子音が響いた。同時に、ポケットで端末が震える。
「あ、在来が復旧したみたいですね。僕、行きます」
液晶の表示を見ながらさっと体を離すと、無意識らしい指が一瞬、名残惜しげに制服の袖を引いた。
思わず口許に笑みが浮かぶ。
「……この連休が終わったら。あんたの部屋に行きますね」
「……来ても入れねーよ」
不機嫌そうに目を逸らして言い捨てる彼に、にっこり笑ってみせる。
「いいですよ。入れて貰えるまで、何度でも行きますから」
言い放って、返事は聞かず背を向けた。何か言いたげな気配は無視して、足早に部屋を出る。
廊下には皐月の風が、開け放した窓からさらさらと吹き込んでいた。
この風が熱を帯びる頃には、彼との関係も何か変わるだろうか。
(変えてやるけどね、俺が)
何の根拠もなくそう決めて、大きくひとつ伸びをした。
空は青くて、連休は始まったばかり。まだまだ数日は、息つく間もない程忙しいだろう。
でもそれ以外、未来は何も決まっていない。
「諦め悪いですよ、僕は」
覚悟してろよ、先輩。
ふふ、と笑いながら、逸る足で駆け出した。ポケットの中で、二度目のコールが鳴っている。
連休はまだ、始まったばかりだった。


[end]


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山形×東海道←山陽←北陸です。北陸が黒子供。
ハルオちゃんの北陸×山陽がちょっと東海道上官を引きずってて可愛らしかったので、
じゃあいっそ思い切り引きずらせてみよう、とやってみたら恐ろしいシリアスに。おかしい…こんなはずじゃ。
てことで実はあっちと時系列繋がってるんです、うちの北陸山陽はぜんぶ。わー不親切!

こっち引き揚げるにあたってちょっと修正。