春だから
春、JR東日本在来線控室には時折、京浜東北線専用シャワールームが出現する。
「こないだメトロの奴がさ、京浜東北っていっつもいい匂いするよなーって頬染めてたから、真実を教えといたよ」
今まさにその『いい匂い』を部屋中に撒き散らしているシャワールームのドアを見るともなく眺め、武蔵野が呟いた。
「真実……あれは血臭を洗い流すために風呂入りまくってるからですよーって?お前意外と鬼だよな、知ってたけど」
煮詰まったコーヒーを啜りつつうんざりと答えたのは高崎。
在来の部屋には高速鉄道の控室にあるような立派なドリップ設備などありはしないので、コーヒーの質は並以下だ。
それでも普段はそこそこ香ばしい匂いがするものなのだがしかし、いつの間にか空間に充ち満ちたフローラル臭にすべてが吹っ飛ばされている。
この世の何処に、フローラルグリーンの香りのするコーヒーを飲みたい奴がいるものか。
「無知って素晴らしい魔法だよね…」
注いだものの飲む気の失せたコーヒーを無為に冷ましながら、京葉が遠くを見つめる。
大概のことには動じない彼も、春先だけは少々テンションが下がりがちだ。
「綺麗にまとめんな、京葉」
「僕はただ事実を述べてるだけだよ?ていうか誰なの、そのドリーマー」
出来ることならこの部屋に投げ込んでやりたいと訴える京葉の視線をかわして、武蔵野が目を伏せた。
「……奴の名誉のために黙っておく。夢くらい見させてあげようぜ」
イヤその可哀相な夢追い人に、現実を突き付けたのはテメェだろが。
誰もが思いもしたが口には出せず、部屋にえもいわれぬ沈黙が落ちた。
「でもさ、あながち夢とも言えないんじゃないのー?」
重い空気を破って、はーいと元気よく埼京が手を上げる。
春先は何処もかしこもトラブルまみれなので彼だけが際立つこともなく、よって他に反比例するように埼京の機嫌は上昇する。
だからといって別に彼のトラブル率が下がるかというと決してそんなことはないのだが、そこを突っ込む余力は誰にも残されていなかった。
ああ春よ。
「黙っとけ埼京」
「でもさ、京浜東北って黙ってればキレイ系だし。隠れファンとか結構多いって聞いたぞ?」
既にげんなり気味な武蔵野にぎろりと睨まれたのもなんのその、常に苛められっこな彼は矛先が他に向いているのが嬉しいらしく、無意味なしつこさを発揮して食い下がる。
フローラルグリーンに気力のすべてを持って行かれている面々は黙殺すべくカップに逃避を図ったが、努力空しく、意外ところから声は返った。
「京浜東北はうちの代表みたいなもんだから。何だかんだで他路線と顔を合わせることも多いし、そういうことになってもまあ、不思議はないよね?」
椅子にゆったりと足を組んで、宇都宮が微笑む。
瞬間、背筋を走った怖気を、高崎は俯いて耐えた。この笑顔が平穏を運んできたことは、未だかつて一度もない。
が、悪魔は飽くまで優雅にカップを揺らして笑い掛けてくる。
「ましてや振替関係で会う時なんて、必ず事後な訳だし。ちょっと物憂げだったりとかして、そりゃ綺麗なはずだよね」
「事後とかいうな……!」
物騒な表現に、努力空しく反応してしまった高崎が、震えながら机に爪を立てる。
何故こいつはいつも、無意味な波風を立てたがるのか。まったく以て理解出来ない。
「やだなあ高崎、何考えちゃったの。恥ずかしいなあもう」
「俺か!?
俺が悪いのかオイ!!」
「そういえば、どうして皆あのシャワールーム使わないの?」
高崎の苦悩に目もくれず、コーヒーを諦めてコーラの蓋を開けた埼京が薄い色の癖っ毛を揺らして首を傾げた。
「誰も使わないから僕もなんとなく自分の部屋の方使ってたけど。考えてみたら絶対こっち使った方が便利……うわ何だよその顔」
「いや……なんつうか」
一斉に向けられた視線に本気で驚いたらしい彼に、一同額を押さえてばったり倒れる。
「……本気、なんだよなコレ」
「いやもうすげぇわお前……」
「鈍感もそこまで行けば立派な特技っていうか?」
「ま、『無知は素晴らしい魔法だよね』ってことかな」
綺麗に微笑んだ宇都宮が、行き場のない言葉を引き取って締めくくった。
言われた埼京は大きな眼をぱちぱち瞬いたが、敢えて説明したいことではないので、皆さり気なく顔を逸らして追及を避ける。
と、かちゃりと音を立てて件のシャワールームのドアが開いた。
「なんか楽しそうだね。どうしたの?」
いっそう部屋に満ちるフローラルの香りの中、濡れた髪をシャツに落とした噂の主が瞬く。
首を傾けた拍子に覗く、普段は制服の下に隠された鎖骨の白さが、見る者皆をなんとなくげっそりさせた。
「お疲れ様、ここんとこ立て続けじゃない?」
ひとり完璧な笑顔で、宇都宮がカップを揺らす。
「春だからね。まああと2週間もすれば落ち着くよ」
いつもの眼鏡を外した目許に憔悴を滲ませながら、口調だけは事務的に京浜東北が応えた。
束になったその髪から、拭い切れない雫が一粒、床に落ちる。
途端、肩に掛けていたタオルごと、その頭がわし掴まれた。
「うわ、ちょ……っ!痛いよ山手っ」
咎める声に構わず、京浜東北の背後から伸びた手は無言でわしわしと濡れた髪を拭う。
タオルから垣間見える表情に退く気はまったく窺えず、何か言いかけた京浜東北は結局、諦めて彼のするに任せた。
掻き回される髪越しに時折見え隠れする耳朶が、ほんのり朱に染まる。
「……まったく。なんなの、急に」
所在無さを持て余し、小さく呟いた声に、山手から短い答えが返った。
「風邪を引く」
「引かないよ。もう春だし」
「春先が一番危ない。さっきもくしゃみをしていただろう」
「……そうだけど」
別に、風邪とかじゃないし。拗ねたような声は、彼らしくない頼りない弱さを持って響く。
「すごいね、山手がマトモに会話してるよ?」
パブリックスペースに突然出現した二人の世界を蚊帳の外から観賞しつつ、京葉が心底感心した声を上げた。
「あー、お前と真っ当に会話が成立するくらい珍しいな」
反射の如く厭味は返しつつ、武蔵野も驚きを隠せない。なんせ、山手の素の声を聞いたのすら数ヵ月ぶりだ。
「そろそろ言葉忘れたかと思ってたぜ」
「さすがにそれはないでしょ。人形は喋ってるし」
「……どうしてもアレをあいつだと認めたくない俺を判れ頼むから」
常に何となく噛み合わない遅延常連組の不毛な会話をBGMに、じっと山手と京浜東北を見つめていた埼京が、手近な袖を引いた。
「ねぇ高崎」
「……何だ」
俺に振るな話し掛けるな黙っとけ馬鹿、という必死のオーラを醸し出しながらいつも間の悪い男が、心底嫌そうにうっそり振り返る。
ここで黙殺出来ないのが高崎の敗因だよね、という正しい助言は、渡されることなく宇都宮の胸にしまわれた。
そんな小技を身につけた高崎に、存在意義はない。
「あのさー、京浜東北の首んこと」
「黙れ埼京」
嫌な予感を的中させる出だしをすかさず高崎が叩き潰す。
が、こんなことでめげていてはJR一のトラブル路線は務まらないので、埼京は黙らなかった。
「なんか赤くない?麻疹?」
「……お前のソレは天然なのか計算なのかはっきりしてくれ」
天然なら今すぐ世間の荒波に放り込んでくれると拳を固めて、高崎が唸る。
「違うよ埼京、あれはねぇ」
今日何度目かの悪魔の微笑みが、天使の柔らかさを持って埼京に向けられた。
「虫だよ」
怖いよねぇ、ふふ。笑い含みの声で宇都宮が宣う。
催眠に掛かったように、むし、と埼京が繰り返した。
「そう、虫。あのシャワールームに出没する、でっかい緑色の虫。ちなみに肉食」
だから迂闊に近寄らない方がいいよ?
カップ片手ににっこり微笑み掛けられた埼京は、しばし大きな眼を見開き。
「うわあぁん京浜東北ぅぅー!!」
「う……っ、ど、どうしたの埼京?」
駆け寄って来た埼京に突然タックルをかまされた京浜東北が、勢いを殺し切れずよろける。
その肩を支えた山手がほんの僅か不機嫌そうに眉をしかめたが、表情というにはあまりに薄い変化だったため、幸いにして誰にも気付かれずに済んだ。
「京浜東北、俺今すぐバルサン買ってくるから!京浜東北食べられちゃったら俺もうダメだし!!」
さっさと駆除だよ駆除!と独り息巻く埼京に着いて行き損ね、途方に暮れて京浜東北が周囲を見回す。
「ちょっと……また誰か埼京苛めたね?」
ひそめた眉と口調が説教じみてしまうのは、染みついた年長者の性だ。
判ってはいても今日だけはどうにも納得がいかず、高崎の額にぴしりと青筋が浮いた。
「苛めてねぇ!つか元凶はお前だお前!!」
鼻息荒くびしりと指差された青い瞳が、ぽかんと見開かれる。
「……僕?」
「何言ってんだよー高崎ー!」
完全に予想外だったらしく、埼京に巻き付かれたままフリーズした彼の代わりに、甲高い声が上がった。
「春先で苛々してるからって八つ当たりは良くないゾ!高崎の怒りんぼさんっ☆」
「うるっせぇぇ!!!!」
ずい、と唐突に目の前に現われた人形にウィンクと共に額を小突かれ、卓袱台があれば間違なく返していたという勢いで古の親父よろしく高崎が吠える。
が、人形にもそれを操る男にも、一切の動揺は与えられなかった。
「あれ〜高崎怒っちゃった?カルシウム取ってる〜?」
きゃははっ、と人形が笑う。可愛らしいと言えなくもないが、ソレを操る本体(本人?)は相変わらずの無表情で、見ていた武蔵野に一抹の薄ら寒さを感じさせた。
今更だとは思うが、やっぱり怖いもんは怖い。
「ちょっと……やめなさい山手。高崎もいちいち乗らない――ひゃうっ!」
止める間もなく勃発したドツキ漫才に、一拍遅れて割って入った京浜東北が、不意に奇声を上げる。
何とも言えないその声は、図らずも部屋中の視線を集めた。
その先で、京浜東北の首筋を撫で上げた人指し指もそのままに、集中砲火を意にも介さず宇都宮は楽しげににっこり笑う。
「埼京が駆除したいのはこの虫みたいだよ、京浜東北」
意味深に眼を細めての一言に、京浜東北は三度瞬いて。
「…………なななっ!」
がばと首筋を押さえて後退る、その顔は湯上りよりも赤かった。
「な、なんでそんな……っ、ちょっと待ってよいつから!?」
「……嘘だろ、気付かれてないと思ってたのか?」
「埼京を超える逸材がここに」
武蔵野と京葉の感嘆に、京浜東北は信じられないと体を震わせる。
「え、何どういうこと……」
まさか誰かいたの!?
という悲鳴のような声に、全員が首を横に振った。
「阿呆、誰が覗くかんなもん趣味悪ィ」
「何のためにあのシャワールームが『専用』って言われてるかっていう?」
「専……用?」
無責任ギャラリーの言葉に固まった京浜東北に、猫のように音もなく、宇都宮が身を寄せる。
「つまり、ね」
するりと伸ばした手で、彼の湿った髪を掬って。
「この『いい匂い』が、どうして山手からもするのかな?ってことだよ」
「――――!!」
もう声もなく立ち尽くす京浜東北の髪から、ぐいと宇都宮の手が避けられた。
片手でその手首を掴んだまま、器用にもう片方の手の上で、人形が無邪気に笑う。
「しょーがないじゃん、春なんだもん!」
きゃは☆と可愛らしい高い声が、微妙すぎる室内に響く。
「春だから……か。そうか……」
それはなんだつまり発情期かそういうことか。
思いつつもそんなことはとても訊けず訊きたくもなく、高崎はただ冷めきったコーヒーを飲み干した。
部屋中に満ちた緑の花の香りは、ようやく薄れつつあった。
[end]
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山手×京浜東北でした。
……と果たして言っていいものか……すいませんホント。
どうもJR在来組が好きすぎるらしい。
山手と京浜東北の話というよりもただひたすらに苦労性な高崎の話になりました。
あと俺はどれだけ埼京を阿呆の子だと思っているのかという……。埼京ファンの方申し訳ありません。
在来オールキャラ目指して書き始めたものの中央と総武の入り込む隙をどうしても見つけられず(ユーザーなのに……)、
八高に至ってはさっき存在を思い出しました。
イヤもうホントごめん。
オールキャラの道は険しいですな。
ちょっとこのままではあんまりなので、近々フォローがてら補足小咄を書くつもり、
と言ったまま今は冬。
ビバ☆ぐだぐだスパイラル!