ふう、と吐き出された紫煙が、がたがた回る扇風機の風に掻き乱されて、瞬く間に散っていく。
連日体温越えの猛暑を記録するこの季節に、未だ冷房のないこの部屋は彼には大分きついらしく、今日はずっとご機嫌斜めだ。肉付きの薄い頬を流れ落ちる汗を乱暴に拭っては、苛々と煙草を吹かし続ける白い項を、見るともなしに眺める。
ヘビースモーカーの彼の所為で、俺の部屋の古ぼけた卓袱台の上には灰皿が常備されている。
サークル合宿で行った先でふと目に付いた青い硝子のそれは深い海を思わせて涼しげなのだけれど、溢れんばかりに吸い殻を詰められてしまっては風情も台無しだ。
「政宗殿、些か吸いすぎにはござらんか」
「煩ェ」
控えめな忠言は案の定、低い声にばっさり切り捨てられた。
よく光る隻眼でぎろりと俺を一瞥したひとが、根本近くまで灰になった煙草をこれ見よがしに深く胸まで吸い込み、一息に吐き出す。
真横に向けて。
最近気付いたのだが、俺といる時、彼は決してこちらに向けて煙を吐かない。
こうして向かい合っている時も、隣に座っている時も。必ずついと顔を逸らし、俺から一番遠い方向へと紫煙を追いやるのだ。
かつて、それこそ煙草などというものが一部の貴人の特権であり、薬とも言われていた頃からあの煙を愛飲している彼だが、昔は機嫌を損ねた時などは容赦なく顔に向けて吹き付けられたものだ。煙管で直接燻された、苦みと焦臭さの混じったそれはひどく不快で、やめて下されと顔をしかめる俺を、このひとはいつも笑いながら見ていた。
悪癖ではあったが、そうやって笑う彼は何処か幼く可愛らしくて、密かに楽しみにしていたこともあったのだが。
しかし今生、この煙が薬どころが百害あって一理なしの毒薬であることが判った途端、彼はその癖をぴたりと封印してしまった。
自分は相変わらず日に数箱のペースでそれを消費していく癖に、俺のことは徹底して遠ざけようとする。
ならばいっそ煙草ごと止めてくれればいいのに、と思うのけれど、それは出来ない相談なのだそうだ。
―――だってアンタ、いっつも甘ったるい匂いしてて鬱陶しいんだよ。
こっちまで甘い気がしてくる、そう宣う彼は、俺に言わせればそうして反らされた尖った顎の線だとか白い首筋だとか、まるでキスを待つ時のように軽く窄められた薄紅い唇だとかがどれだけ俺を煽るのか判っているのかと問い詰めたいくらいなのだが、それが俺の為を思ってのことだと思えば、その強情ささえただ愛しくてならない。
今も、開け放たれた窓の外にぼんやり眼をやりながら吐き出される煙は、そのまま揺れるカーテンを掠め、空へと消えていく。卓袱台ひとつの距離ではさすがにその独特な匂いまでは防げないが、副流煙被害の範疇外であることは確実だろう。
不器用で判りやすい気遣いは、ひどく愛しいけれど。
「政宗殿」
「Ah−n?」
「そろそろ、煙草はやめにして頂けませぬか」
そう立て続けにふかされては、いつまで経ってもお側に寄れぬ。
彼の好む哀れな犬のような表情で懇願すれば、一瞬、煙が止まる。
けれど次の瞬間には、その分を取り返すようにまた深く吸い込んで。
「Shut up! アンタの部屋が暑苦しいのが悪いんだろうが!」
「はぁ」
これはなかなか手強い。
だがしかし、いい加減こちらも限界だ。狭い室内、手を伸ばせば届く距離にいるのに触れられぬなど耐えられない。
ましてやこの暑さで、風が吹くたび普段より強く彼の匂いがそよぐ。新手の拷問もいいところだった。
「政宗殿」
三度目の呼び掛けに、彼が顔を顰めて何か言おうとした一瞬の隙を突いて、指先の煙草を奪った。
そのまま見様見真似で吸い込めば、ひとつきりの瞳がぎょっと見開かれる。
「ッ、Shit!! 何してやがるバカ幸!!」
「―――ご存じでしたか」
片方の指先に煙草を挟んだまま、卓袱台に乗り上げるように身を寄せて。
「ニコチンは、水溶性だそうでござるよ?」
合わせた唇越し、言葉と一緒に白く儚い毒を吹き込んだ。
口腔に残る苦みを舐め取るように、ぬるんだ内壁にぐるりと舌を這わせる。
彼の味がした。
「某を心底煙から遠ざけたくば、禁煙なさるしかありませぬなぁ」
さて、どうなさる政宗殿。
確信犯の笑みでにっこり微笑みかけた先、口と独つ眼をぽかりと開けていた彼の人が、一拍置いてぎっと眦を吊り上げる。
「Damn!! 汚ぇぞ、ゆき!」
いくら口汚く罵ったところで、頬を真っ赤に染め上げていては何の意味もないと、このひとはいつ気づくのだろう。
まったく、可愛い御仁だと思いつつも言葉にはせず、喚く唇をもう一度塞いでやった。
貴方と分け合うならば毒すらも蜜に変わると、いつ教えてやるべきかと思案しながら。
[了]
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街で見かけたさりげないマナーからの派生。
煙草吸ってる男のひとはえろい。