春のうた 余話


※はじめに
こちらは【春のうた】本編その後のこぼれ話となります。
ネタバレを多分に含みますので、本編読了後にお読みになることをお勧め致します。

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「只今帰りました!」
  門を潜り戸口で声を張り上げると、中からぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえた。何度聞いても心地よいその音に、思わず頬が緩みそうになるのを引き締めようと苦心しているうち、奥から藍の着物を纏ったひとが現れる。
「Welcome home, 幸村。今日は早かったな」
  にこりと笑った政宗は、玄関の板間に膝をついて幸村を迎えた。その姿を見るだけで、慣れぬお役目に疲れた心身が、一時に解けていくような心持ちになる。
「ここ暫く抱えていた事件が、昨日で一段落しましたので。早く帰って休めと言われ申した」
「Ah, アンタまた何かmistakeやらかしたんだろ」
  薄い唇を引き上げてニヤニヤと笑う政宗は楽しげだ。何とも小憎たらしい言い様だが、かといって反論も出来ず、幸村は視線を彷徨かせる。
  この春、幸村は信玄の内与力として、晴れて南町に召し抱えられた。とはいえ、奉行所内では一番の若輩、やっていることも信玄の雑用をこなしたりちょっとした使いっ走りをする程度で、今までと大して変わらない。当然しくじりも多々やらかしたが、幼少の砌より顔馴染みの与力や同心たちが皆笑って許してくれてしまうので、逆に心苦しいくらいだ。
  信玄の役に立てるのはただただ嬉しかったが、実際の勤務は気疲れもするし、無力さを思い知らされることも多く、楽しいばかりのものではない。それでも、この小さな家に戻れば政宗がいると思えば、心は只管に春爛漫の幸村である。
  幸村と二人、この寮に暮らすようになってからの政宗は驚く程に献身的で、それこそ新妻よろしく尽くしてくれてしまい、嬉しいを通り越して恐縮してしまう。初出仕の日など、帰るなり盥を持ち出し「濯ぎを」などとと言い出した彼を断る方が、仕事より何倍も骨が折れた。なんとかそれは諦めてくれたものの、代わりとばかり日々出迎えだけはきっちりしてくれる。尽くしているというよりは、飯事のような真似事遊びを楽しんでいるといった風情だが、勿論悪い気はしない。
「ま、政宗殿は、お変わりござらなんだか?」
  誤魔化すように日々繰り返しの問いを返せば、政宗はひょいと着流しの肩を竦めて見せた。
「ん、バカチカが遊びに来たくらいだな。あづま屋の大福置いていったぜ、アンタ好きだろ?」
「……元親殿、が」
  好物の名よりそちらが心に掛かり、自然声が沈む。
  政宗――藤雀花魁の客であった元親は、何処から聞き出したのか、雪解けの頃にひょっこりこの寮に顔を出した。以来ことあるごとに顔を出しては、世間話などして行くらしい。政宗もまた、そんな彼を歓迎していた。
  国元から訳も判らぬまま売られてきた政宗にとって、吉原の外は見知らぬ町だ。当然縁故もなく、況してやこの根岸は閑かと言えば聞こえは良いが、早い話が人気も疎らな鄙びた地区である。幸村が出仕してしまえば、政宗はこの家でひとり無聊を囲うこととなる。それが判っているから、元親の来訪に蟠りは覚えれどやめろとは決して言えはしない。
  しかも、最近ではもうひとつ、彼を無碍に扱えぬ理由が出来た。
「こないだの仕事の話、OK出たとさ。明後日あたり、顔見せに行ってくる」
  幸村の心情と反比例するかの如く、報告する政宗の声は弾んでいる。
「決まれば、皐月くらいから板場に入れるらしいぜ。ま、最初は包丁なんざ触らせてもらえないだろうがな」
「……左様にござるか」
  彼は近々、上野の小料理屋に板前見習いとして雇われることが内定している。
  将来は小さな料理屋をやりたい、と聞いたのは、彼がまだ籠の鳥であった頃のこと。忘れていた訳ではないが、ひと冬の蜜月を越えた春、政宗が突然料理屋の板場に入ると言い出した時には耳を疑った。
  店を持つにも修行が要る。政宗の腕の良さはここでの暮らしの最初の一日ではっきりと知ったが、料理は職人の世界、江戸に店を持つともなれば生半な腕ではやっていける筈もない。とはいえ修行に入れるような伝もないし、と躊躇っていたところに、折良く勤め話を持ってきたのは元親だった。
  自らも商人である彼は、様々な店に顔が利く。世間話の中で政宗がぽろりと漏らしたその話は、彼が動いたことであっという間に形になってしまった。
「なんでも、アイツの惚れた相手が副業でやってる店なんだってよ。俺が入れば様子見って名目でちょくちょく顔出せるからってんで、やけに乗り気なんだぜあの野郎」
  ヒトを出汁にしやがって、と毒づく横顔は、けれど喜色を隠しきれずうっすらと紅潮している。それを美しいとは思えども手放しで喜んでやれない自分に、幸村はただ俯いた。
(俺は……こんなにも心の狭い人間であったか)
  政宗の夢が叶うのは嬉しい。自分がお館様の元で働いている間、この家に彼をひとり残しておくのは心苦しくもあったし、この話は渡りに船だ。
  そう考える理性を裏切るこの思いが子供じみた嫉妬だと、言われずとも判っている。
  元親は好ましい男だし、島津の道場で仕合って以来、幸村も友人としては寧ろ慕っている。時間が合えば島津の元で剣を合わせることもあった。
  けれどそこに政宗が絡んだ途端、自分は驚く程狭量になるのだ。元親が政宗に抱くのが、色恋の情ではないと判っていても尚。
「……幸村?」
  黙り込んだ幸村を不審に思ったか、並んで廊下を歩いていた政宗が袖を引き、顔を覗き込む。
「どうしたよ? やっぱ疲れてんだろ、アンタ」
「……いえ、そうではありませぬ」
  ひたりと合わさった独つ眼に、ふと泣きたくなった。
(このひとが、好きだ)
  愛しくて、大切で。だからこそ、誰にも渡したくない。
  いっそこの小さな家に、一生繋ぎ止めておけるのならばどれ程心穏やかだろう。けれど、それはこのひとを傷付けるだけだと判っている。自らの意志で籠を出た美しい鳥を、再び籠に押し込めるに等しい醜い行為だと。
「幸村」
  白い手が、子供にするように優しく髪を撫でる。ひやりとしたその手から、もうあの香の匂いはしない。代わりに、さっきまで廚にいたのだろう、食欲をそそる夕餉の匂いがした。
  ここにいるのは吉原の太夫ではなく、伊達政宗という名のひとりのひと。幸村が望み、望まれた、ただひとりの伴侶だ。それは幸村にとってもただ、幸いだった。
  少し困ったように眉を下げて、政宗が微笑む。
「……板場に入ったら、ちょっと帰りは遅くなるが。一応休みもちゃんと貰えるみてぇだし、そしたらアンタの好きなsweetいっぱい作ってやるよ」
  だから、我侭を許してくれと。目の前のひとがぽつり呟くのに思い切り首を横に振り、その背を両手で抱き締めた。
「許すも何もない、政宗殿の人生だ、そなたの好きにすればいい! 某は、何も……!」
  言う気はない。――言う権利もない。
  思う心に反して、腕ばかりが力を強める。
  熱い腕に為すが侭に抱かれたまま、政宗がふ、と穏やかな吐息を零した。
「なぁ、幸村。俺な、料理は元から好きだったが、ちゃんと仕事にしてぇとまで思ったのは、アンタの所為だぜ」
「……某、の?」
  思いも寄らぬ言葉に顔を上げれば、至近の位置でひとつきりの瞳が頷いた。
「アンタが、いっつも甘いもん食って、幸せそうな顔してるの見て。俺もこいつにこんな顔させたい、俺の作ったもので笑わせたいって。……思ってるうちに、だんだん形になった」
「…………」
「アンタが気付かせてくれたこと、独り善がりじゃなくて、もっと誰かに分けたいと思った。だから、店をやりたいんだ」
  憶えた幸せを誰かに分けて、ひとりでも立てるように。
  自分の足できちんと立って、幸村の隣を歩けるように。
「俺は……国では小十郎とかいろんな奴らに世話してもらって、廓じゃ謙信の世話になって。自分の力で生きたことがないから。……ちゃんと憶えて、アンタに釣り合う『人』になりてぇんだ、幸村」
  手渡されたものを分けるように幸村の頬に触れて、政宗は言った。ひやりとした手がゆっくりと温もっていくのを、泣きたいような気持ちでじっと待つ。そんな幸村にふと微笑んで、政宗は唇を合わせた。
  触れるだけの口付けはすぐ深く奪い合うものになり、夢中で互いの咥内を探る。絡む舌に掻き回された唾液が、くちゅ、と淫りがましい音を立てた。
「なァ、ゆき。アンタがいない場所でも生きられるように、これから皐月まで、ちゃんとアンタを寄越せよな?」
  触れた場所から流れ込む熱だけが拠り所なのだと教えて眼を閉じた伴侶の色香に、若い理性は容易に箍を外す。
  膝裏を掬い、背を抱え込んで花嫁宜しく抱き上げ寝間へと走る幸村に、俄か妻が軽やかな笑い声を上げる。
「Calm down!! アンタ、夕餉どうする気だよ?」
「……今は、政宗殿を頂戴したく」
  想い人の余裕の表情に歯噛みしつつ律儀に許しを請えば、政宗は満足げに口角を上げて、その鼻先に歯を立てた。痛みなどない、ただ甘いだけの接触。
「Okay, 俺もだぜdarling. ……火を通すくらいはアンタがしろよ」
  実はとうに支度は終えていたのだ、と明かす言葉で相手も同じ気持ちだったと知り、そうなればもう何も遠慮など要らない。
「某とて、政宗殿がおられねば生きられませぬ」
  本気の睦言を褥に下ろした薄赤い耳朶に吹き込んで、幸村は後ろ手に襖を閉めた。






「……何の用だ、猿」
  顔を合わせるなり苦虫を噛み潰したような表情で問われ、佐助は内心天を仰ぐ。
「何って、山菜取りすぎちゃったからお裾分け。そういう右目の旦那こそ何の用?」
「……政宗様に小次郎様からの文をお持ちしただけだ」
「あ、弟さんと仲直りしたんだ? 良かったねぇ」
  本心からの言葉だったのに、強面の傅役は益々渋面を深めるばかりだ。まあ、無理もない。
「……持ってかないの?」
「……テメェこそ」
  白々しい遣り取りの後、最近すっかり腐れ縁じみてきた二人は、揃って深々と息をつく。
  小さな寮の門前には見えずとも中から漏れ出す甘ったるい空気が立ち込めていて、正直この中に踏み込むのはご遠慮させて頂きたいところである。前に一度、うっかり踏み込んでしまった時の気まずさが克明に思い出され、佐助は重ねて溜息を落とした。
「なんていうか……春ですね」
「……下らんことを言うな」
  全身ピリピリと棘を出しているかのような男に頭を掻いた時、道の向こうにこれまた馴染んだ姿が見える。
「あっれー? 何だよ、片倉さんに佐助までお揃いで。こりゃ奇遇だねぇ!」
  振り向いた二人の発する陰鬱なオーラなど意にも介さず、あっけらかんと明るい笑顔を振り撒いた慶次が、楽しそうに片手を上げた。
「二人揃って用事? 俺も謙信に頼まれて、春物届けに来たんだよー」
「……町人にあんな金襴緞子着せてどうするのさ?」
  藤雀の着物を仕立て直したという包みを掲げて見せる慶次に、佐助は呆れたような一瞥を投げる。が、慶次は一向に堪えた様子もない。
「だいじょぶだいじょぶ、地味めなやつだけだから!」
「……あっそ」
  何だかもう取り合うのも馬鹿馬鹿しい。只でさえ疲れ果てていた佐助は、早々に白旗を上げた。
  出来ればとっとと退散したい思いとは裏腹に、無情にも新たなる訪問者がその場に現れる。
「おうおう雁首揃えて何なんだこりゃ? 遂に祝言でも挙げんのか?」
  強ち冗談でもないような台詞を吐きつつ現れたのは銀髪の男。彼もまたこの冬馴染みになった面子の一人だが、今日はその背後に見慣れぬ顔がいる。
「そっちこそ、綺麗どころ連れて逢引かい?」
  元親の連れにしては随分と毛色の違う、線の細い怜悧な顔立ちの男に、慶次が興味津々といった様子を隠しもせず身を乗り出した。その軽口に慌てたのは当の元親だ。
「莫迦言ってんじゃねぇ! 俺はアレだ、コイツが早く政宗に会いてえっていうからよ!!」
「煩い、喚くな。我はただ、双方問題のない話をずるずると引き延ばして時間を無駄にするのは下らぬと言うただけだ」
  必要以上にばたばたと手を振って否定する元親をぐいと押し退けた青年が、ふんとつまらなそうに鼻を鳴らす。
「我も使える男ならば皐月からとなどと言わず明日からでも使いたい。だというのにこの莫迦がぐずぐずと」
「あ、じゃあこちらが政宗の新しい雇い主さん?」
  話には聞けど初めて見えた話題の人物に、一同の目が集まった。無遠慮な視線にまるで臆することなく胸を張り、安芸屋の店主は胡乱げに切れ長の眼を眇める。
「で、貴様らは何を屯しているのだ。この家に用があるならばさっさと中に入れば良かろう」
「あー……まあ、そうしたいのは山々なんですけどねぇ」
  力なく笑った佐助が、虚ろな眼差しを空に投げた時。
「―――ぁ、んあぁっ、ゆきむら……っ!」
  家の方から聞こえた艶声に、その場の空気がぴしりと凍る。只ひとり慶次だけが、ぴゅうと口笛を吹いた。
「おー、さっすが花月楼の御職、イイ声だね!」
「……ころすぞ前田慶次」
  知ってはいたが知りたくなかった主の今の有様を思い知らされた傅役が、地獄の底から湧き上がるような声で呻く。冗談ではなく腰にやった手が、脇差の鍔をカチカチ言わせているのが物騒極まりない。
「あああああもおぉぉっ、何か哀しくてヒトの閨事覗くような真似……っ」
  しかもその片割れが弟のような相手であれば尚のことやり切れず、だから厭だったのに! と喚いた佐助も、頭を抱えてしゃがみ込んだ。一方、呆然と立ち尽くす青年の頭を宥めるようにぽんぽんと軽く叩き、元親は居心地悪く頭を掻く。
「あー、元就。そういうことだから、もうちょっと放っといてやっちゃもらえねぇか。な?」
「そうそう、新婚さんの蜜月邪魔するなんざ野暮のすることだぜ、兄さん」
  慣れ慣れしく肩を抱いた慶次にも訳知り顔で頷かれ、ようやく我に返った青年はふるふると拳を震わせた。
「……………ふ、なかなかに鍛え甲斐のありそうな駒よ」
  青褪めた顔に凄絶な笑みを刷き、低く呟く。
「良かろう。まずは、この世におるのが己等だけでないと思い知らせてくれるわ……!」
「あー、それは是非お願いします」
「…………俺からも頼む」
  恐らく今いちばん必要なことを目の前の青年が為してくれそうな気配に、保護者たちは恥も外聞もなく頭を下げた。正直そろそろ手に余る。ここはひとつ、第三者からはっきりと思い知らせて頂きたい。
「生きるってことは人と関わるってことなんだって、ちゃあんと教えてやって下さいよ、旦那」
  お互いしか見えない二人は気付いてすらいないようだが、今ですらもうこれだけの人間が、縁を結んでしまっている。これから先、世界は広がっていく一方だ。


  春が終わったら見ていやがれ、と期せずして同時に胸に呟く一同の前で、季節はゆっくりと移ろうとしていた。



[了]


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2010/11/14発行、恐惶謹言九天ペーパーより再録。
本当は新婚な二人も書きたかったのですがまったく入る余地がなかった為、
ここでこっそり補足です。悪足掻き。
あとナリ様も折角設定したのに結局出せなかったので……。
この後はこんな感じでわいわい楽しくやっていくと思います。

ペーパーには縁ちゃんが素敵な表紙を付けてくれてました。
こちらからどうぞー。