cosmos



 赤紫の花の群が、秋の風に頭を揺らす。
 縁側に腰掛け、剥き出しの爪先をぶらぶらと揺らしながら、幸村は見るともなくその様を眺めた。
 つい、と風を滑るように横切るのは秋茜。つい先日まで降り注いでいた蝉時雨は、もうその欠片も見当たらない。あの蝉たちは番を見つけられたのだろうか。今頃何処か見えないところでゆっくりと土に還る、乾いたちいさな屍を思う。

 ふと高度を上げた秋茜につられるように目を上げれば、高い空には白い月。骨にも似たその色は澄んだ青に混じることなくくっきりと、欠けることなく天の高みに掛かっている。足下に影を落とすことも、星を光らせることもない、ただしろいかたち。
「旦那ー?」
 呼ぶ声と共にぱたぱたと軽い足音で駆けてきた忍が、幸村の姿を認めて大仰に吐息した。
「もう、こんなとこで呆っとしてないでよね? お仕事はいっぱいあるんだよ」
 腰に両手を当てて小言を言う彼を見上げて、いつものようにすまん、と謝った。
「これがあまりに綺麗に咲いたのでな。見惚れておった」
 言い訳じみた言葉に、佐助も庭へと目を向ける。奥の院の小さな庭には庭師の手も入ることなく、野放図に咲き乱れる花があるだけだ。
「よく増えたね、この花も」
「政宗殿に頂いた時は、ほんの数株だったのだがな。大した手も掛けてやれぬのに、健気なものだ」
 零れ出た名に、佐助が刹那、きゅっと眉を寄せた。それには気付かぬ振りで、幸村はただ花を見詰める。
「手の掛からぬ花だとは仰っておられたが。誠であったな」

 これならいくらアンタでも、枯らすこたねぇだろうよ。なァに、放っておきゃあ勝手に咲いて勝手に枯れるさ。

 南蛮商人から貰ったのだという花を、そう言って手渡されたのはもう随分と前のことだ。
 あれから世界はだいぶ変わった。
 主は悲願叶って天下人となり、世が定まったお陰で戦も随分減った。最近ではいくさといえばたまに起こる小競り合い程度のもの。佐助は足音を立てることを憶え、主の上洛に合わせてこの国の重鎮となった幸村が槍を握ることも無くなって久しい。それを淋しいと思うことも、最早ない。
 ここは上田ではなく、この花もかつての城から株分けしたものにすぎぬ。無事根付くか懸念したものの、その年の秋にはこの庭で、何事もなかったように花を揺らしていた。成程、彼のひとの言うとおり、つくづく手の掛からぬ花だった。

 具足を纏わぬ彼と言葉を交わす機会を得たのは、唯の一度。戦の狭間、束の間結んだ同盟の使者として奥州を訪れたのが、最初で最後の刃を持たぬ邂逅であった。互いの利の為だけの仮初の誼は長くは続かず、後はただ只管、血煙の中を追い追われた記憶のみ。出逢いも別れも、戦場の煤けた空の下だった。
 幸村の槍が貫いた青い陣羽織の腹から紅い血を滴らせて、かくりと膝を折った竜を受け止めたのは幸村の腕だった。数え切れぬ程刃を交わらせた相手であったが、その身に触れたのは、あれがはじめてのことであった。具足を纏った体は思いの外重く、のし掛かられる形で地面に膝をつく。
 幸村のほつれた紅い上衣の肩口に顔を伏せた竜は、小さく笑ったようだった。雷光を疾らせた漆黒の籠手に包まれた手が上がり、首に下がった六文銭を掴む。そのまま強く引かれて顔を下げた幸村の唇に、乾いた感触が一瞬だけ触れた。

 じゃあ、また、な。

 掠れた囁きだけを残して、竜は還っていった。その行く先が天か、それとも地の底か判じる術はあらねど、唯ひとつ確かなことは、この手の届かぬ何処かだということだけ。

 あの日以来、幸村の携えた槍の穂先に炎の点ることはなくなった。点さぬのではなく、端からそんなものはなかったとでもいうかの如くに、あれ程逆巻いていた身の裡の熱は綺麗さっぱりと掻き消えてしまった。無論戦はそれで終わりではなく、竜の後にも並みいる緒将との対戦が控えてはいたが、その全てを幸村は炎無きままに乗り切った。
 炎を失った紅蓮の鬼を案じる者もあったが、当の本人は至極納得していた。
 炎は、竜に持ち去られてしまったのだ。
 惜しむ思いはない。戦なき世に、槍先の炎など無意味だ。ただ、己の火が死出の旅路を照らす松明程の役にでも立てばよいと、それだけを考えた。暗い彼岸でうっかり道にでも迷われては、探し出すのに難儀する。あの火があれば、見つけるのも容易かろう。

 そして竜亡きあと、失われたものはもうひとつ。

「これだけ晴れてれば、今夜のお月見は安心だね」
 傍らに立って空を見上げた佐助が、眩しげに目を細めた。
「昨日も綺麗な月が出てたもんね。美味しいお団子作るから、楽しみにしててよ、旦那」
 殊更に明るい声でそう言う忍に、幸村も微笑んで、ああ、と頷いた。お前の作る団子は旨いからな、頼んだぞ。うん、任せといて。

 この忍は、きっと気付いている。いくら晴れようとも、幸村の仰ぐ今宵の空に、月は出ない。この先何度満ち幾度欠けようとも、その月が幸村の瞳に映ることはないのだと。

 月を失った当初、何度夜が来ても昇らぬそれが不思議で問うてしまったのが不味かった。以来佐助は探るように幸村を見ては、日毎の月の様を口にする。昨夜の月は猫の目のようだった、今日は今にも消えそうな朧月だ。そのすべてに頷いてやりながら、けれどそのどれもが幸村には見えぬ。
 代わりのように、真昼の月はいつも空にある。常に円く白々とした、剥製の月。

 きっとあれは抜け殻なのだ。実体を喪くした残骸だけが、未練がましくこの身を見下ろしている。それは今の自分に、ひどく相応しいように思えた。
 炎を喪くした今の己に、月の光は強すぎる。抜け殻同士が似合いだろう。

 いつの間にか秋茜は姿を消し、ただ花だけを揺らす風が剥き出しの首筋を撫でていく。
 竜の亡骸を抱いて座り込む幸村を佐助が見つけた時、いつも肌身放さず身に付けていた筈の六文銭は、既にその首元に無かったという。竜が最後に掴んだ、三途の川の渡し賃。無礼を承知で冷たくなった手を開かせてみもしたが、結局見つけることは出来なかった。新しいものを誂える気は何故か起きず、結局首元は開いたままだ。それを心許なく思う時期もとうに過ぎた。

 炎を、月を、覚悟の証を失っても昼夜は止まることなく繰り返し、戦場を城の中に移して幸村の進むべき道もまた続いていた。取り敢えずと残ったものを掻き集め、動かさねばならぬ場所に回していったら体の真ん中にぽかりとした虚が残った。きっとこれは、死ぬまで抱え続けねばならぬものなのだ。

 幸村の運んだ竜の首は、信玄の検分を終えたのち、綺麗に胴と繋ぎ直され、奥州へと送られた。敗軍の将としては破格の扱いだが、一番手柄を立てた幸村が望んだ唯一がそれだったので、異を唱える者はなかった。
 信玄の脇に座し、改めて対峙した竜は美しかった。血糊を吹き清められた肌はただ皙く、閉ざされた瞼に落ち掛かる髪は艶やかに黒い。
 誰ぞの配慮であろうか、右目には生前と変わらず黒鍔の眼帯がしっかりと結ばれていて、それを見た時幸村の胸はちりと疼いた。
 今思えば、あれは嫉妬だったのであろう。死して尚、彼と共にあることを許されたものへの。
 いつでもぴかぴかと光っていた弦月の兜を失った頭はひどく小さく見えて、これはまこと彼の竜であろうか、よもやこれはまやかしの木偶にすぎず、竜はとうに逃れて何事もなかったように今も奥州でせせら笑っているのではと馬鹿なことを思う程に頼りなかった。まるでただびとのようなそれ。一度だけ見た筈の横顔は霞んで、容易に思い出すことも叶わぬ。
 ただ判ったのは、もう二度とあの声が己の名を呼ぶことも、不思議な色をした隻眼がきらりと光るのを見ることもないということのみ。
 引き結ばれた薄くかたちのよい唇を凝っと見詰めながら、その時はじめて幸村は、己がこの竜を好いていたのだと知ったのだ。

 真白い死装束に包まれた竜の体は、今頃奥州の土の下で、冬の蝉のように眠っているのだろう。抜け殻にすぎぬと判ってはいても、あのかたちが腐って崩れていくことは、どうにも想像の範疇外だった。

 またな、と言った。彼は約束を違えない。幸村の炎で常闇を照らし、煤けた六文銭を弄びながら、彼岸の川辺で幸村がたどり着く日を待っている。その白く小さな頭を飾るのは、あの弦月だろう。
 ―――なれば、そこへ往けさえすればこの虚は埋まるのだ。そう思えば、いっそ満ち足りた思いが胸を満たす。
 ああきっと、この心すらも抜け殻なのだ。晴天に掛かる、白けた月のような。

「旦那ー、日が落ちる前に積んである分は終わらせてよね?」
「判った判った。そう急かすでないわ」
 佐助に追い立てられるようにして、根が生えた尻をようやく縁側から浮かせる。板間に付けた足はすっかりと冷えきっていた。間もなく秋も終わる。
 陽の光に慣れた目には薄暗い部屋へ一歩足を踏み入れて、幸村はふと振り返った。
 小さな庭には相も変わらず咲き乱れる可憐な花が風に頭を揺らし、その上にはぽつりと白い、真昼の月。
 その光景を目に納め、ふ、と小さく微笑んで、幸村は障子を引く。

 耳の奥で、さらさらと花の鳴る音が聞こえた気がした。



[了]


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スピッツ『コスモス』を聞いていてふと浮かんでしまったので書いてみた。
死にネタ続いてしまって申し訳ありません…。
以前縁ちゃんと、
「サナダテは相手が死んでも死ねない理由があるから後追いとかはないけど、その瞬間に心は死んじゃうよね」
という話をしていたのをふと思い出した。

コスモスが日本に入ってきたのは明治の頃だそうですが、そこはまあBSR歴で。

筆頭は自分の知らないところで真田が勝手に川を渡らないように六文銭を持って行きました。