有明の



 しとしとと静かな雨の音がする。
 夜着からはみ出した素肌の肩が寒さを覚えて、ぶるりと背を震わせながら幸村は眼を開いた。
 ぴたりと締め切った障子の向こうは未だ仄暗く、夜が明けきっていないことを知る。常ならばそろそろ鳥が鳴き出す頃合だろうが、生憎雨では勤勉な彼らもお役御免らしい。不規則に軒を叩く雨音に部屋ごと閉じ込められたような心地になって、知らず耳を欹てた。
 と、傍らでもぞりと暖かな塊が蠢いた。外の様子を窺っていた視線を戻せば、己の胸に擦り寄るように押し付けられた濃色の髪が薄闇に映る。寝乱れた長めの髪は敷衾の上に無造作に散って、彼を子供のように幼く見せた。
 まだ朝には早ェだろ。半ば夢の中にいるような声は、何処か咎めるような響きを纏っている。この竜はひどく寝起きが悪い。人より低い体温の所為か、目覚めても半刻ばかりは褥の上で呆としていることが多い。そして共寝の朝にはこうして、先に起きようとする幸村を夢現に引き留めるのだ。
 確と目醒める前、ほんの一時だけ引かれる腕は、他者に拠ることを善しとしない彼が唯一見せる甘えのようなものにも思えて、堪らなく愛しい。
 雨が、降っておりますな。陽の射さない部屋の中では黒髪と見紛うその髪にそっと指を滑らせ、滑らかな感触を愉しみながら、幸村は囁いた。夢の淵にいる竜を起こさぬよう潜めた声は、吐息のようなかそけさで冷えた空気を震わせる。
 じき、雪になるぜ。されるがまま髪を梳かれながらうっすらとその独つ眼を開けて、腕の中の竜が喉を鳴らす。
 ああ、しかしこの雨の後では積もりませぬなぁ。
 たっぷりと水を孕んだ土の上では雪など積もる前に融けるばかりだと溜息を落とせば、竜がまたひそやかに笑う。
 You idiot. これしきの雨が関係あるかよ。
 相変わらず意味の取れない異国の言葉は、ただ只管に甘い。
 凍てつく風に晒された雨はすぐに凍り付き、その上にひと冬融けぬ雪が積もる。そうしてこの奥州の地は冬に沈むのだと、歌うような声が教えた。
 真白の雪は何者の侵入も許さぬ堅固な要塞となり、猛る竜の爪もその時だけは納められ、一時の眠りにつく。
 積もれば最早この地に入ることは叶わず、同時に出ることすら侭ならない。勿論一介の将とはいえ、主君たる信玄から一城を預かる身である幸村も、雪の訪れと共にこの地を離れ、上田へと帰らねばならぬ。
 次に逢えるのは、梅の花が散る頃。
 それは今この静かな部屋ではひどく遠く、切ない程に不確かに思えた。
 夜が、明けたら。
腕の中の人がぽつりと呟く声に、幸村は髪を梳く指を止めた。
 夜が明けたら、とっとと帰れよ、お前。
 厚く綿を入れた夜着に頭の半ばまで潜った竜の声はくぐもって、声と共に漏れる吐息の熱さだけが、緩やかに幸村に触れる。冷えた肌に熱い程の吐息は、けれどすぐに冷えて、蟠る夜気に紛れていく。
 見下ろす眼に映るのは俯く旋毛のみで、己よりまだほんの僅か背の高い彼の頭を見下ろす形でいることが、ふと不思議に思えた。
 素っ気なく帰れと言いながら、裏腹に身を寄せる竜の長く伸ばした前髪が、腹と胸の境辺りで擦れて乾いた音を鳴らす。同時に脇腹にちりりと爪を立てられる感覚があって、まるで冬の朝の猫のようだと口の端に笑みが上った。
 北の生まれのくせに寒さに弱い彼は、冷え込む朝には決まってこうして、暖を求めるように擦り寄ってくる。当然のように暑さにも弱いから、夏などは熱を厭うて早々に蹴り出されることもしばしばで、それを思えばこの現状は過ぎた幸いと言えるだろう。全くよくよく絆されたものだと、我が事ながらいっそ可笑しい程だ。
 政宗殿。小さな頭に呼びかければ、竜はふるりとその身を震わせ、浅く吐息した。
 帰っちまえ、と突き放す言葉に背くように、冷えた足が温い褥の中、幸村に触れる。二人分の体温に暖められた中でも氷のように冷たいその肌に、幸村は刹那、瞼を伏せた。
 この秋、信玄は上洛した。
 名だたる名将諸侯を悉く破り、将に破竹の勢いで天下へと突き進む主を、止められるものは最早この国にはいないだろう。
 この、天を翔る蒼き竜でさえも。
 甲斐と奥州の間には今の処、か細いながらも同盟という名の抑止の糸が結ばれている。が、対するものがいなくなった今、そんなものに如何程の意味があろうか。
 覇道の前に立ちはだかる者は、なんびとであろうとも倒すのみ。
 そしてこの竜は、決して他者に頭を垂れることはない。
 今度、己が運んだ書状の内容を、幸村は知らない。けれど、それを広げた竜の口元に浮かんだ笑みで、予感は確信に変わった。
 この冬が明けたら。
 梅か桜か、何れかの花の頃、次に二人が相見えるのは、戦場となるのだろう。
 そしてそれが、この眼が今生にて彼を映す最後。
 今年の春は、ここ奥州にて、共に桜花を愛でた。まだ肌寒い風に散らされる薄桃の花を見上げて笑った竜の白い頬が、酒気に染まって美しかった。
 あの同じ空の下、ただひとつきりのこの身命を賭して、唯一無二と定めた相手と死合う。その時を思えば、純粋な喜びと興奮がこの身を満たす。
 けれど同じ程に寂しいとも思う己に、幸村は驚くのだ。
 出逢った時から、いつかはこの手でとそれだけを思ってここまできた。強き者に出逢った喜びが甘い切なさを帯びるのに時間は掛からなかったが、情を交わし合った後も尚、その願いに一片の変化もなかった。
 戦うことと慈しむことは、同じ熱さで幸村を彼に向かわせる。
 だから、戦うことに躊躇はない。むしろ、待ち望んでいた刻が来たとさえ思うのに、この身を吹き抜ける耐え難い寂寥は一体何だ。
 来年の初雪、その次の花を、共に見ることはないのだと。
 その事実だけが今、幸村を子供のように戸惑わせる。
 ゆき、と呟く声がして、はい、と応えれば、ちげえよと竜が笑う。
 涅槃の雪は、白いかな。
 低く、ひとりごちるような儚さで落とされた言葉に、幸村は瞬いた。
 涅槃の雪。
 さて、白いやら赤いやら。生憎見たことがありませぬ故、想像もつきませぬ。
 正直に答えれば、更にくつくつと笑う声が返る。
 赤か、そりゃあ似合いだが、そうなるとアンタは紛れちまうな。悪戯じみて見上げる独つ眼は、いつの間にやらはっきり目醒めて、乏しい光にきらりと耿った。まるで精巧なつくりもののようだった。
 赤かろうと白かろうと、某、政宗殿なれば見誤りませぬ。憮然と言い返して、その瞼に唇を落とす。まだ笑っているらしい彼の発する振動が、薄い皮膚越しに伝わった。
 何処に居られようとも必ず見つけて差し上げまする故、大人しくお待ち下され。
 決意を込めて告げた誓いは、軽く鼻で笑われた。
 Don't be silly, テメェが俺を待つんだよ。ナメたこと言ってんじゃねぇ。いや某が政宗殿を討たせて頂く所存なれば、待つのは政宗殿にござる。だからそれがこっちの台詞だって言ってんだろ、やっぱり頭悪いなテメェ。
 二人分の温もりに倦んだ夜着に包まり、声を潜めて言い合って、やがてどちらからともなく吹き出した。笑いながら、今度は薄闇にも仄かに赤い唇に、己のそれを触れ合わせる。
 熱を持たぬまま、戯れのように触れては離れる接吻の甘さを味わいながら、そうか、また二人で雪を見ることは出来るのかと、そのことだけがただ嬉しくて、幸村は笑った。
 そうして、赤い雪原にこの蒼はどれ程映えるだろうと、その光景を思いながら、そっと眼を閉じる。
 春を告げる稲妻の如き蒼は、きっと地獄の底に在ろうとも何ひとつとて損なわれることなく、怖気立つ程に美しい。


 雨はいつの間にか止み、ほとほとと降り積む雪の音が、冬の訪れを告げていた。



[了]


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全てのジャンルで一度は書いている、お目覚めトーク。何かこれで決まるなあ。
ほんとはもう少し甘い感じの、かるーいいちゃいちゃになるはずだったのに……何この殺伐さ……
ええこういう二人が好きなんです。藍さんに「BLじゃなくてJUNE」ていわれた。すごい納得。

ちょっと実験的な書き方してたら何がなんだか。読みづらくてすみません。