照柿



 さすけ。

 後ろから唐突に名を呼ばれて、立ち止まる。

「おぬし、佐助というのであろう?」

 振り向いて見つけた声の主は、ちいさな背丈に似合わぬ大きな声で、もう一度その言葉を繰り返す。
 樺色の着物と葡萄染の袴が、午後の陽に照り映えて眩しかった。
 何となくぼーっとその生き物を眺めていたら、当の生き物――少年が、焦れたようにきゅっと眉を寄せた。ちいさな背で、犬の尻尾のような薄色の髪がぴょこんと跳ねる。

「なんだ、おぬしの名だろう? へんじをせぬか」
「ああ……はい」

 名前。ああそうだ、確かに名前だ。猿飛佐助。己を識別するために与えられた、個体としての名称。
 こんなふうに真っ向から、面と向かって呼ばれた記憶は、あまりなかったけれど。

(……びっくりした)

 慣れないことは、頭の回路に不具合を起こさせる。修行が足りないなーと内心でひとりごちて、佐助はその場に片膝をついた。

「何か、ご用ですか。弁丸様」

 頭を垂れて呼び掛ければ、少年が大きな眼を見張った気配がした。

「おれを知っていたのか」
「はあ、まあ」

 見りゃ判るというか。
 真田の赤備えに準えたらしき着物の色。あちこち汚れてほつれてはいるが布地は上等で、加えて下働きの子などではあり得ない、堂々たる態度に目線の強さは、この子供の身分を伺わせて余りある。
 なれば当然武家の子、年の頃から考えてもこの城の主昌幸の次子、弁丸以外は考えられない。
 先程城主に謁見した時にはいなかったはずだが、この幼さでは無理もない。公の場に立つのはまだ数年先といったところか。

「ご挨拶が遅れましたこと、お詫び致します。本日より真田殿に仕えさせて頂くこととなりました、甲賀、猿飛佐助と申します。以後宜しくお引き立ての程を」

 頭を深く下げたまま、平坦な声で慇懃に口上を述べながら、さて、と佐助は思案する。
 名のある家の次男は、ひたすら甘やかされて我侭に育つか、逆に我が身を拗ねて捻くれ曲がるかの二択であることが多い。先刻顔を合わせた長子信幸は穏やかで聡明な人物に見えたが、兄弟だからといってその気質が共通しているとは限らない。
 さて、この子供はどちらだろうか。

 あーあ、初っ端から厄介なのに捕まったかな。俺様ついてない。

 伏せた顔を見られないのをいいことにこっそり溜息を落とした佐助は、しかし次の瞬間、目前に迫った薄茶の瞳にぎょっと体を引いた。

「……すごいいろだな」

 大きな、洗いたての琥珀玉のような眼が、至近距離からまじまじとこちらを見ている。
 袴が土を擦るのも構わず(もう充分に泥だらけではあったが)しゃがみ込んで、俯く佐助の目線に無理矢理割り込むように首を傾げた弁丸が、感心したように呟いた。

「こんないろの髪は、みたことがないぞ。父上のかっている池のこいのようだ」
「はあ、鯉ですか」

 ……さすがに、鯉に例えられたのは初めてだ。

「もともとこのいろなのか?」
「はあ、いや、まあ」
「ものすごくきれいだ。うむ、気に入ったぞ!」

 無邪気な笑顔が、何の衒いもなくぱちんと弾ける。一瞬、ひどく眩しいような気がして、佐助は思わず瞬いた。
 太陽のようだと思った。
 何故か動くことが出来ずに固まってしまった佐助の前で、子供がふと首を傾げる。

「……ううん、やはりこいとは少しちがうか。ならば……」

 ひとしきりうんうんと葛藤して、弁丸は突然、がばりと立ち上がった。勢いに押されて仰け反った佐助の右手を、子供らしくふくふくとした手が有無を言わさずひっ掴む。

「わかったぞ佐助! あれだ!!」
「あれって、」
「こっちだ、来い!」

 佐助の腰にも満たない体は存外力が強く、戸惑ったままぐいぐいと引っ張られながら、揺れる尻尾を眺める。
 ぎゅっと繋がれた手があたたかくて、どうにも居心地が悪かった。

(……何、この子)

 型破りにも程がある。
 そもそも忍にこんなふうに慣れ慣れしく接する主家の子など、聞いたこともない。
 佐助はこの真田で初めて家持ちとなる身だが、里ではひたすら影であれと教えられて育った。
 なのに、まさかこんな。

「佐助、見ろ! あれだ」

 不意に下から弾んだ声がして、反射のように顔を上げる。
 その視界いっぱいに、鮮やかな橙の色。

「みごとだろう! 今年はじめて実をつけたのだ!」

 たわわに実った、まだ若い柿の木。その下で、弁丸が得意げに胸を張る。

「兄上が生まれたとき、父上がうえた木だ」

 おれの木もあるのだが、まだ実をつけぬのだ、と少し残念そうに口を尖らせて、それでもちいさな手のひらは、愛しげに幹を撫でる。

「実をつけるにはみじかくとも八年はかかるのだと。ならばまだ何年かはまたねばならぬ。だからすこしくやしかったのだが」

 かわりに、おまえが来てくれたのだな。

 楽しくて仕方がないと言うようにくふくふと笑う声が、日なたで微睡む仔犬のようだ。

「……俺?」
「そうだ。ほら、そっくりであろう?」

 それが柿の実と、自分の髪の色を引き比べての言だと気づいて、今度こそ容赦なくがっくり肩を落とす。
 鯉の次は、柿。

(子供って……)

 まったくよく判らない。
 殺しのために雇った戦忍を捕まえて、鯉だの柿だの、見当違いにも程がある。
 じりじりと胸の隅が、得体の知れない炎に炙られる。
 違和感と、反発と。――ほんのすこしの、羨望。

(俺はそんな、きれいなもんじゃないのに)

「佐助!」

 呼ばれて、はっと我に返った。気づけば目の前に弁丸の姿はなく、声は遥か頭上から。

「……って、何してんですかあぁぁぁ!!」

 見上げた先、決して低くはない柿の木の梢に赤いものを見つけて、思わず叫んだ。ざあっと血の気が引く。

「猿ですかあんたは! ちょ、とっとと降りっ……」
「大丈夫だ! それよりほら、この実がいちばんおまえの色に近いぞ!」

 梢近くの枝からもいだ橙の実を掲げ、弁丸が笑う。
 その足下で、柔い横枝がみしりと軋んだ音を立てるのを、その時、確かに聞いた気がした。

「っ、弁丸様――…!!」

 脳で認識するより先に、体が動いた。
 折れた枝と一緒に宙に投げ出された体の下に、両手を伸ばして滑り込む。背中で盛大に土を擦って投げ出した胸に、暖かな塊がどすんと音を立てて落ちてきた。

「―――ぐぇっ」

 潰れた蛙のような呻きが漏れる。子供の体とはいえ、高さ分の力も相俟って、胸郭が潰れるほどの衝撃を受け、佐助はその場にぐたりと伸びた。

「佐助っ、佐助!? 死んではならぬうぅぅ!!」
「死んでません……」

 すぐさま胸の上でぴょこんと跳ね起き、涙目で叫ぶ弁丸にほっと息をつき、痛む額を押さえる。ぶつけた訳ではない。純粋な心労だ。
 襟首を掴んでがくがく揺さぶられながら、子供の頭を左手でがしりと掴んだ。好き勝手に跳ねる榛色の髪が、ふわふわと手を擽る。

「アンタね……柿の木は滑るし折れやすいから登っちゃいけないって習わなかったんですか!?」
「う……い、言われてはいたが」

 軽そうな、ちいさな頭は片手に易々と収まる。
 利き手でないとはいえ、鍛えた忍の握力は強い。容赦なく締め付けられる頭蓋が痛むのか、眉間に皺を寄せて呻いた弁丸がもごもごと口篭もった。悪いことをしたという自覚はあるらしい。
 こめかみを締め付けられ弄ぶように片手で揺らされ、それでも大きな双眸は揺らぐことなく、真っ直ぐに佐助を捉えた。

「世話をかけたことはすまぬ。が、どうしてもおぬしにこれを取ってやりたかったのだ!」

 言い切る手元に、鮮やかな橙。とっさに庇ったのか、傷ひとつない実は大きく艶やかで、美しい。

「……別にそんなの、自分でも取れるし」
「う。そうか……そうだな、うむ」

 平坦な声に、弁丸はまたへにょりと眉を下げた。ぺたりと伏せた耳が見えそうなしょげっぷりに、心底呆れる。

(……変なガキ)

 忍隊を抱える家の子で、信玄の両目の如きと称される智将の息子。柔らかそうな手は胼胝まみれで、おそらくは彼自身、いつか戦にも出るのだろう。

 戦場では、優しさや純粋さなど何の利にもならない。必要なのは力と勘と、刃を振り降ろす為の大義名分。
 けれど――それでも。

「でも……どうしても、おれがおまえにやりたかったのだ、佐助。おまえに会えてうれしかった、から」

 その大義名分くらい、自分で選んでもいいはずだ。

「……ありがとうございます」

 柔らかな手を開かせて実を取り上げると、胸に跨ったままの弁丸が大きく眼を見開いた。透明な琥珀色はもうこぼれ落ちそうで、人間の眼ってここまで大きくなるんだなあ、と妙な感動を覚える。

「う、うむ。よし、食べるがよい!」

 数度ぱちぱちと瞬いたちいさな主は、直後、くしゃりと笑った。やはり、太陽めいた笑顔だった。
 その柔らかな髪を撫でてやりながら、苦笑して肩を竦める。

「えっと……これ、このままじゃ食べられませんよ。渋柿だから」
「なんだと!?」
「あー……でもちゃんと種抜いて干せば甘くなりますから。そしたら冬の間、ずっと食べられますよ」

 いつだって。貴方の欲しい時に、欲しいだけ。

 教えながら、知らず口元に薄い笑みが上った。

 彼にとって、些末な己がこの美しい実と等価であるというのならば、それに見合うだけの働きはしてやろう。
 種を抜き、風雨に晒して、彼の口に入るに足る価値を。
 そしていつか、このあたたかな血肉の一部となる。
 その為の労ならば、きっと自分は惜しまない。
 この名を呼びこの眼を見つめる、得難く眩しい存在のためならば、きっと。

 強すぎる光を見つめたこの眼が、いつか焼かれて落ちるとしても。

「美味しい干し柿、作ってあげますよ。弁丸様」

 きっと自分はこのちいさな太陽のために生きて、いつか死ぬのだろう。
 そんな予感を甘い毒のように胸に抱いて笑えば、子供はひどく楽しげに頷いた。
 胸に抱いた重さと熱いほどの温もりが、その時、ただ愛おしかった。








「佐助!」

 不意に降ってきた声に、佐助は立ち止まって天を仰いだ。
 見上げた視線の先に予想通りの色を見つけ、眉をひそめる。

「ちょっと旦那! 柿の木には登るなって、何度言ったら判るの?」

 腰に手を当て、殊更に眼を尖らせて睨み上げれば、すまん、と軽く笑った主が気負わぬ仕草で枝を蹴る。
 忍顔負けの身軽さで、葉一枚散らさず宙にその身を躍らせた青年は、すとんと軽い音を立てて、佐助の目前に危なげなく着地した。
 磨き抜かれた赤備えの戦装束がちかりと光を弾いて、佐助はそうと気づかれぬほど微かに、眼を眇める。

「もう、いい加減にしてよね。落っこちてももう助けないよ?」
「はは、すまぬな佐助。だが、もう早々足を滑らせたりはせぬ故、安心するがよい」

 もう子供ではないからな、と胸を張る、その輝く瞳はまるきり子供そのものだ。
 もはや突っ込むのも馬鹿馬鹿しく、ただこれ見よがしに深く息をついて、佐助はがしがしと頭を掻いた。

「ま、俺様に面倒かけなきゃいいですよ。ていうか今あんなとこから落ちてくる旦那受け止めたりしたら、俺様確実に死ぬし」
「何を言う佐助! 真田忍隊の長ともあろうものが、そう簡単に己の限界を決めるでない!」

 情けないことを言わず励め、と叱咤激励してくる主にはいはいと気のない返事を返して、視線を上方へ移す。
 今まさに主が飛び降りてきた木は、その梢を一面鮮やかな橙の色で飾っていた。

「今年もよく実りましたねぇ」

 陽に照り映えるその色に感慨深く呟けば、主はぱっと相好を崩した。

「うむ、大きさも艶も申し分ない! 近々収穫をせねばな」

 笑うその手の内にも、大きな実がある。つやつやと輝く光沢ある外皮は、穏やかな秋の光の下で、ただ眩しく美しい。

「佐助の作る干し柿は絶品だからな! 今から楽しみでならぬ!」
「……もう忍のお仕事じゃないよねソレ」

 いいですけど今更だし、と自分に言い聞かせながらもやはり理不尽さは拭えず、けれど決して不快な気分ではない己に苦笑する。
 天高く枝を伸ばす木はあの日のそれではなく、この主の木だ。
 あの頃まだ実も付けられぬ若木だったこの木も、今では毎年たわわに実を実らせる。まだまだ幹は細いが、枝振りは申し分ない。
 それでも実を付け始めたのはここ数年のことで、八年どころか十年を過ぎても一向に実を付ける気配のない木に家の者は気を揉んだものだが、当の主はその中でひとり、けろりとしていた。
 曰く、

 ―――俺には佐助がいるからいいのだ。

 それを聞いた当初はどんな理屈だ、と呆れ返ったものの、本人が余りに当然と言わんばかりの眼をしているので抗議も出来なかった。
 まあ干し柿を作る分には信幸の木があるし(信幸自身は既に婚姻を結んで家を離れていたが、その際弟に餞別として実を自由にしていい旨言い残していったらしい。さすが兄弟だ)、城内には他にも柿の木くらいある。
 この木一本実を付けなかったところで何の問題もないのだが、それでもやはりその梢に初めて橙の色を見つけた時は嬉しいような安堵したような、えも言われぬ気持ちになった。
 佐助、俺の実だ! と駆け込んできた主の手の中にあったあの橙色を、自分はきっと忘れられないだろう。

 その主は今や立派な若武者となり、木から落ちたりもしないし、わざわざしゃがまずとも視線も合う。気がつくとぼろぼろになっているのは相変わらずだが、それも土埃よりは戦場の煤や返り血であることの方が多い。紅蓮の鬼だの甲斐の虎若子だの、ご大層な二つ名もついた。
 それでも赤い背に揺れる尻尾のような後ろ髪と、琥珀玉のような大きな眼だけは変わらない。
 そして相変わらずの笑顔と、あの頃より大分低くなった声で、この名を呼ぶ。
 さすけ、と。

「……弁丸、様」

 ぽろりと零れた声は完全に無意識で、次の瞬間、はっと我に返って口を押さえた。
 が、音になってしまった言葉は取り返しがつくものではなく、自分もびっくりしたが、突然幼名で呼ばれた主は大きな眼をさらに真ん丸に見開き固まっている。

(あああやっちゃったー……!)

 穴があったら入りたいというか今すぐ影潜りで遁走したい衝動を必死で堪え、上目遣いで恐る恐る主を窺う。

「……佐助」
「……はい」
「判っているとは思うが、俺の名は」
「真田源二郎幸村様、です。知ってます判ってます俺の手落ちですごめん見逃してお願い!!」

 微妙すぎる沈黙が、長閑な秋の庭に落ちる。
 身の置き処のなさに珍しく真っ赤になった自分の忍をまじまじと見つめ、幸村はやがてくすりと笑った。

「……お前にそう呼ばれるのも、久しぶりだな」

 予想外に柔らかなその声音に、佐助はぎゅっと瞑っていた眼をそうっと開く。そしてその視界に、やはり柔らかく、何処かくすぐったそうに笑う主を見つけ、今度こそぽかんと口を開けた。

「旦那……怒って、ない、の?」
「別に怒ることでもあるまい。……まあ、人前では御免被るが」

 柿の色を映したように、うっすら赤い頬が眩しい。

「まあ、俺はどう呼ばれようが、お前の声なら聞き逃さぬ」

 だから、いい。

 いっそ満足げなその声音に、今度は佐助が赤面する番だった。

 ああもうこの天然タラシ、どうにかして欲しい。
 誰がこんな子に育てたのさ、言っとくけど俺様じゃないよ絶対!

「む、佐助、顔が赤いぞ? 風邪でも引いたか」
「……だいじょぶです。大丈夫だからちょっと今触んないでお願い!」

 今や誰より近しい忍の珍しい全力の拒絶に、幸村はわずか眉をしかめたものの、まあいいか、と伸ばした手を引いた。
 佐助が大丈夫と言ったら大丈夫なのだ。その一点において、幸村はこの忍に絶対の信頼を置いている。
 そしてその信頼は、出会った日から今日まで、裏切られたことはない。

「ならいいが、しっかり養生するがよい。お前がいなければ、真田は立ち往かぬ」

 お館様の為にも、お主には励んでもらわねばな! と相変わらず一片の曇りもない主の笑顔に、まだ引き切らぬ顔の熱を持て余しながら、佐助がぼやいた。

「そう思うんなら、給料上げてくださいよ……」

 なんたって俺様の契約金、柿の実ひとつですからね。

 何のことだ佐助、と首を傾げる主の手元から橙の実を浚って、くるりと踵を返す。
 背後ではまだ主が何やら叫んでいる。その声が高い空に吸い込まれていくのを聞きながら、佐助はそっと艶やかな実に口唇を寄せた。

 固くなめらかな表面は冬の気配を纏わせて冷たく、ほんのり甘い匂いがした。



[了]


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佐助はゆっきーに会って初めて人になって、ゆっきーの為にだけ人でなくなるんだという妄想。
忍ってオイシイ設定ですね……。弁丸かわいい。
あ、どうでもいいけど干し柿は風はともかく雨に晒しちゃいけません。カビるよ!
種は抜く派と抜かない派とあるらしい。上田はどっちだ(調べろ)
ちなみに髪色はゲーム版です。アニメはなんか全体的にみんな色が濃い。